初恋

初恋は、呪いだという。

どこかで聞いたその言葉が胸に残っている。


おおよそ、恋というものを理解できずに生きてきた。

お寿司が好き、あの曲が好き、この人とは話していて楽しいから好き、みたいなものは自分の中にあって、どの「好き」も自分の中で特別なものではなかった。

では恋とはなんだ。

異性として好きとはどういうことか、いまいち掴めないまま年を重ねた。

好きだ好きだと虚言を重ねながら、女性に酒を飲ませて抱くことだけ考えているような人種は軽蔑していたが、かと言って別に好きでもない、なんとなくその場に居合わせた女とセックスできないとは思わなかった。

いや、できた。

据え膳を食うことが礼儀だとさえ思っていた。

なんとなく退屈で、なんとなく趣味が同じで、なんとなくの積み重ねで、なんとなく彼女もいた。

やりたいこととか、好きなものはあっても、恋愛となると「なんとなく」に支配されていたように思う。

「好き」

という言葉は、男女が身体を重ねるときに使わなければならないルールがある。そんな義務感でしか使ったことがなかった。

身体を重ねたあとは別れ際にキスでもしておけばいいのだ。

色恋なんてそんなもんだろう。

初恋は呪いだ、という言葉の意味なんて理解できる気がしなかった。

―――――

10代も終わりに差し掛かった頃の話だ。
1つ年下の女の子と出会った。

容姿端麗。頭脳明晰。明朗闊達。

綺麗で頭の良い女の人はプライドが高くて接しにくいな。
そんな偏見は彼女によって吹き飛ばされた。

勉強だけできるのではなく、コミュニケーション能力が堪能なのだ。可愛くて、頭の回転は速く、言葉のチョイスはユーモアに富む。彼女を好きになる人はいても、嫌いになる人はいないだろう。でも同性なら嫉妬するかもしれないな。そんな風に思っていた。

そして誰にでも分け隔たりなく接する。

冴えない男に「俺、ラーメン好きなんだよね」と言われたら「私も好きです!」とか言いつつ、後日一緒に食べに行く。誰とでも仲良くし、誰にでも好かれる。

数多の男が彼女に言い寄り、撃沈した。または身体を重ねた。

2人で居酒屋に行ったとき、

「私こんなんだから、男友達って先輩と、ゲイの子しかいないんですよ。笑えますよね」

彼女が自嘲気味に笑った顔を今でも覚えている。

僕は彼女と身体を重ねたいと思わなかった。

どうしてなのか自分でもよく分からなかったが、そんな気にならなかった。きっと人として尊重しているからなんだろうな、そんな風に思っていた。

一緒に話をしているだけで満足だった。

彼女が僕のことを先輩、と呼ぶのを僕は気に入っていた。

―――――

そんなこんなで、長い年月が過ぎた。

30代も半ばに差し掛かっているというのに僕は相変わらず独り身だった。

相変わらず恋とはよく分からないものだし、かと言って色恋抜きで結婚するメリットもよく分からなかった。

彼女とは何年も会っていなかった。

結婚するときに連絡をくれて、落ち着いたらお祝いでもしよう、なんて言っている間に月日が経っていた。

ある日、酒に酔った勢いで彼女にLINEをした。

だいぶ遅くなったけど、結婚祝いに飯でも奢るよ、と言うと彼女は二つ返事で承諾した。

―――――


久しぶりに会った彼女は、相も変わらず可愛らしい女性だった。

「実はね、離婚したんですよ。なんでですかねえ、800万円かけて式も挙げたのに。周りには祝儀泥棒でごめんねーって言うしかないですよ。いい人だったんですけどねえ、意見が合わないと、手が出ちゃう人だったんですよね。私も怒ったら手が出るって感覚は理解できるんですよ、親にもよく殴られたし。殴られながらも、私が悪いんだろうなとか思ったりして。ああ、すみません久しぶりなのに暗い話しちゃって。でも離婚したとは言っても今日は結婚祝いでしょ?ご馳走になりますね。先輩」

彼女はよく酒を飲み、よく喋った。

久しぶりに彼女と話すのは、とても楽しかった。

僕も酒を飲んで、ひたすら飲んで、帰るのがだるくなった。

近くのホテルを予約して、タクシーで向かうことにした。

なんとなく彼女もホテルについてきて、そこでも一緒に酒を飲んだ。

そして気付いたら身体を重ねていた。

彼女は身体を重ねている間「先輩、好き、好き」と繰り返し、それに対して何も答えることができないまま、行為を終えた。

彼女の数多の好きに対して、一度たりとも好きと返せなかった。

ルールなのに。

どうして好きと言えなかったんだろう。身体を重ねるときの礼儀のようなものだろう。見せかけの、上塗りの、好きという言葉で関係を成立させるのが、セックスじゃないのか。何をしているんだろう。自分には勿体ないくらい綺麗な女性じゃないか。しかもこれだけ長い関係で、相手のことを尊重しているのに。そんなこともできないのか。

自問自答しながら、彼女の顔を見た。

ベッドで仰向けに寝転んでいる彼女は、身体を隠すこともなく、何を考えているのか分からない顔で天井を眺めていた。

身に覚えのない感情が自分の中でぐるぐるする。

ぐるぐるぐるぐるぐるぐるして、

「好き、だ」

自然と、言葉が口からこぼれていた。

彼女は少し目を瞠ってこちらを見た。

そして困ったように微笑んで言った。

「ありがとうございます」




服を着て、ホテルを出て、タクシーを拾い、お金を渡し、彼女だけを乗せる。

タクシーに乗る前、彼女は僕に軽く口付けをした。


―――――

ホテルに戻った自分には何も残っていなかった。彼女のいたベッドに座り、彼女の見つめていた天井を見上げる。もう一度、口の中で小さく、好き、と言ってみた。もう二度と、伝えるべきではないと、知っていた。

初恋は、呪いだという。

この気持ちが溶けてなくなればいいのに、と思った。あるいは、この気持ちに縛られたまま一生苦しむことができればどれほどいいだろうと、切に願った。


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