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天才の行方 親性と子性

曲を作ること〜アルバム制作日記〜

今回のアルバムの6曲目の予定している曲に
『天才の行方』という曲がある。

その曲の中には4人の天才が出てくる。

一人目は原爆の父オッペンハイマーだ。

二人目は『神は死んだ』で有名なニーチェ

三人目はチューリングテストで有名なアランチューリング

四人目は天才数学者の谷山豊

この四人が登場して、天才とは何か。
という問いに立ち向かう。

現代は天才に憧れがちだ。とにかく天才であればあるほどいいと思っている。しかしそれは全くもって検討違いだ。
彼らには彼らの苦しみがあり、その力ゆえに道を踏み外す事が多い。
「力を持った人間は道を踏み外す、だから人間なんだ。」
というゲーム龍が如くのセリフがあるが、本当にその通りだ。ほんとうに龍が如くのセリフはすごい。

この四人が一堂に曲に入るわけで、バランスを取るのがとても難しい。
絵画でいうと、四人のスペースをきっちり作る必要があるからだ。

何かと何かが被ってしまって背面にあるものが見えないようになってしまってはよろしくない。四人のスペースを作るためにはまず額縁を先に用意する。曲で言えば曲の長さにあたる。たぶん感覚的に5分くらいだろうと考えてみる。
ただ、4人が自分の本性を現しだすと、5分では足りなくなったり、5分ではうるさすぎたりする。
そうして制作の中で額縁の変更を迫られるのだが、その時、彼らのわがままを許していいのか??という問いも自分の中に生まれる。

こどもが、欲しがるものをなんでも与えていては子供が永遠に未成年のままであるように、親はその自戒を忘れてはいけない。ある程度の節制の中で自分のお金の使い方を覚えるようにして甘やかしすぎてはいけないのだ。

親としての製作者である自分には葛藤はすでに生まれている。しかし、実はその甘やかしを許すか許さないかのジャッジメントの刃物は子供ではなくまさしく自分に向いているのだ。

子供を甘やかしている親は自分を甘やかしているように、曲に対する甘やかしはまさに自分の甘さそのものなのだ。

曲の言う通りに、ただ作ればそれはそれで楽なのだ。しかし、それでは子を十分に吟味できず完成にもっていけない(成人状態)。作曲者である親にはそれがその曲にとって良いのかどうかという葛藤する自己を含めて曲の本性に寄り添わねばならない。
曲を完成させる過程には、親がこどもに立ちはだかり子VS親の関係を越えて曲の本性の体現に繋げるという構図が要求される。
ゆえに親は子供のためにいろんな努力を日々必要とする。色んな音楽を聴いたり、音楽を理解するために勉強したり、具現化の仕方としてギターの腕を磨いたり、歌の練習をしたり、いろんな思考法を知ったり音楽以外の芸術家から教育方法を学ぶなどなど。
そのような親の努力なしに、こどもをその本性に近づけることはできない。さもなければこの本性が簡単に親を食い破る。その時その曲の本性は作曲者をはるかに超えているので、その作曲者はその曲を完成させることができない。

曲の本性からの要求に親は逃げてはいけないが、前提にはその本性からの要求に気づける親でないといけないというハードルがある。ここが大きなハードルである。ほとんどの人が気づけない。

親はその子の本性への欲動に気づき、それに対する最善の状況を与えること(以下 親性)を必要とする。しかし、それは甘やかすのではなく親としての作曲者の全身全霊をかけてその曲に最善の状況を与えることを意味する。親が努力を普段から要するのはそのような環境を与えるには普段の努力が必要だからだ。

現代社会に話を移すと「友達と遊んでないで勉強しなさい!」系親やネグレクトなどの問題を受けて、現代の社会では子が子を産んでいると言われるが、子と呼ばれる親はこのような親性の課題を一切放棄しているということだ。さらに、彼らの本性への欲動にも気づけないのだ。

本来もともと親などいない。親にはなるものなのだ。作曲者も同じで曲が浮かんだ段階で作曲者ではない。葛藤・努力によってアイデアを曲にしていく中で作曲者になっていくのだ。

作曲者はそのような意味において、作曲者に自然と受動的にならされるものなのだ。なるのではない。

親が子性(課題を一切放棄している状態)であっては、子どもは永遠に子供のままだ。
身体が大きくなり大人になっているように見えても最も根幹的な部分がどうしても埋まらない。だから家庭内暴力や家族問題は世代間で続いていく。

曲も同じである。すなわち作曲者が子性の状態では、その作曲者から生まれるその曲は永遠に未成年の子供の曲なのだ。よって本性に向かいきることができず永遠の宇宙をさまようことになる。
親である作曲者は永遠に親性と子性の間を葛藤しながらさまよう。それに終わりはなく常に努力と葛藤を自己から生まれる作品(アイデア)によって要求される。その葛藤によって作曲者は成長していく。

ゆえに作曲者に終わりはない。この点が実際の親と違う部分である。親は永遠に子供を産めない。しかし作曲者はその物理的制約が少ないためにより子を作ることが可能だ。
そのような意味において、作曲者は作曲者であり続ける限りにおいて永遠に親としての作曲者として完成することはない。ある子供と親の関係において良き作曲者であったとしても、違う曲によってはそうでないかもしれない。このような意味で、最高の親というものが常にイデアのようにどこかにあるような気がしてしまうが、結局その子にとって最高であればいいという個別論に落ち着くように、作曲者と曲にはそのような関係がある。しかし、このような相対的で個別的な関係により、作曲者は常に、完全な作曲者にはなれずその曲にとっての最善な親であろうとすることしかできない。そのような、その曲にとっての最善の作曲者であろうとする親性の追求のその情熱の中にだけ親としての正しい在り方が存在し、その情熱と日々の積み重ねによってのみ曲への不完全な親性への許しを請うことができるのだ。

「天才の行方」という曲は強敵だ。彼らは全て見ている。アイデアという私の中からと、音という私の外からと同時に。おそろしいやつだ。Oh my god 。

親になるためには子供が必要で、親になるためには成長する必要がある。それは子供がないとできないことだから感謝せねばならない。

ありがとう。
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