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SAVE the CINEMAの「SAVE」の欺瞞〜日本のアートの終焉

この記事は#SAVEtheCINEMA 「ミニシアターを救え!」
についての記事です。まず初めに前提として以下のことを確認しておきたい。

A 本文中の「〜の人たち」「彼らは」など三人称複数形を使う時には常に例外者の存在を認めている。
B 筆者は7年前からバンド「響心SoundsorChestrA」のギターボーカルで作詞作曲を行い、計500本以上のライブをライブハウスで行っている。
C 筆者は同意し署名している。
D 筆者はキャンペーンに関しても少額ではあるが協している。
E 筆者は映画好きで、今年の三月に映画を撮っており現在編集中である。

現在#SAVEtheCINEMA で署名と募金でミニシアターを救う活動の輪が広がっている詳しくは上記のURLを参照いただきたい。

https://www.change.org/p/savethecinema-ミニシアターを救え-プロジェクト-新型コロナウィルスによって大きな打撃を受けている-小規模映画館-ミニシアター-等への緊急支援を求めます?recruiter=407191955&utm_source=share_petition&utm_medium=twitter&utm_campaign=psf_combo_share_abi&recruited_by_id=09516a90-7675-11e5-baaf-63e1be3245c0

今回のこのキャンペーンを目にしてからずっと違和感を積もらせてきた。それは今回のことでネット上で見られる「アートを守れ」などの声や「ライブハウスを救え!」上記の施設やそれに関わる人々に「補助金を出せ!」という流れと連動していて日々違和感を積もらせていた。違和感の正体は実は明確なので今日はそれについて書こうと思う。

今回SAVE the CINEMAの「SAVE」の欺瞞〜日本アートの終焉お題したのは
まず「SAVE」、「救う」という言葉がただの感情の釣りであり、アートとの本質を見失わせる言葉であることだ。耳障りのいいとキャッチーさはあったとしても、それらはただの人の感情を釣る、YouTubeなどのタイトル詐欺と同じ原理だ。救うという言葉には、当然、救う側と救われる側がある。

という言葉の中には以下のような構造が自明視されている。
①”救う”は善行である。
②救われる側は何らかの苦難に直面している。
そして道徳判断として、
A救った側は主体性として意思を持って救っている。
B救われる側は救ってもらった人々に感謝をすべきである。
C救った側は感謝されるべきである。
ということになる。しかし実際、救うは何を意味するのだろうか。救うの意味は感覚としては理解できるが、人によって異なる。もし”救う”という何か劇的なこの言葉に他者と共有できる意味を本記事で認めるとすれば、そもそも映画に救われてきたのは私たちなのではないだろうか。
私たちが日頃ミニシアターに救われてきて、日常にはミニシアターの映画が必要でという考えるならば、明らかに「save」という言葉は誤りであろう。
私たちは日々お世話になっている人が何か有事の際に私たちは”救う”とは言わないからだ。
それは全く関係のない人が10年後に今回のコロナの騒動を見て「あの時、市民が映画館を救ったんだ」などのように事後的に振り返る時に誇張されて使われる言葉である。
ただ内発的に損得勘定抜きに、なくなって欲しくないから協力している。と言うのが賛同者の多くの本音ではないだろうか。私もそうだ。
それならば「save」でなく、”恩返し”や”We need the small cinema”などの、「私たちがしたいから」という言い方の方が相応しいのではないだろうか。
「みんなで小さな映画館を救いましょう!」という本質から逸れた言い回しには偽善を感じ、社会規範として救うという意味になり、素晴らしい社会を私たちの手で作りましょう!と言いながら、賛同しない人の自由を奪う、意識高い系自称リベラリストの匂いがしてしまう。
実際、ライブハウスを救う、とか、映画館を救うとか、その活動を宣伝するメディアもリベラルメディアといわれる団体が多い。彼らは、普段は映画やアート、ライブハウスになどについて特に考えても深い敬意もないが、ライブハウスに補助金を出さない政府を批判できると見るや否や、すぐさまら困窮するライブハウスを取り上げ、それをここぞとばかりに政府を批判する。このようなこと自体が、もしライブハウスをアートに位置付けるなら、アートの政治利用も同様だろう。安倍総理が星野源の楽曲とコラボした動画を配信した時に、音楽の政治利用だと言った人間がいるが、そもそも音楽がもしアートならアートの政治利用をしているのはそのようなメディアもそうだろう。そして本サイトにあるように、ドイツのアーティスト支援は素晴らしい!一方、日本の政府は一円も出さない!ダメな政府だ!やるべきだ!として日本の政府への批判の道具にされている。アート界隈の復興を口実に署名活動をしていること自体も”政治批判のアート利用”ではないか。どうしてなんだ。どうして。なぜそれに気付かないんだ?
日本のアートはすでに敗北している。政治批判の道具にされていることを良しとしているのだから。そして、そのことにも気付いてないのだとしたらこの国でアートはすでに死んでいると言える。

そんな言葉の小さな使い方はどうでもいいじゃないか!と思う人がいるかもしれないがこのことを理解しないと絶対にドイツのアーティスト保証のロジックは理解できない。

まず、日本の場合、今回の「SAVE」と言う言葉に象徴されるように、日本人は可哀想だから救ってあげようマインドだ。それか一部の人は本当に存続して欲しいから。と言う感情論だ。しかし、ドイツの場合は全く違う。彼らは真逆なのだ。ドイツの文化大臣のモニカ・グリュッタースの文面を以下に掲載する。


#SAVEtheCINEMA の文面には「生命維持〜」以降の文面しか使われていない。まさに、メディアが文脈の中から一部を切り取っている昨今の手法と同じである。しかし、そのことがドイツと日本を簡単に比べて、だから日本も!と言う浅はかな比較論に持っていってしまう。全文を読めば分かるかもしれないが、ドイツの芸術の社会的地位、そして文化との関わりを明確に理解している。
そして、アーティストとクリエイティビティの関係も明確に区別している。ドイツの場合、アーティスト=クリエイティビティによって人々や文化を前に進めるという者という定義になっている。そして歴史を踏み越えるためには新たなアイデアを全面で押し出し創造の中で、歴史を踏まえながら、このコロナ後の社会を再構築し、その際に必要なクリエイティビティ、アイデアの象徴としてアーティストの存在を位置付けているのだ。
このようなドイツの歴史を踏まえた彼らのアーティストの必要性故の支援は、決して”かわいそうだから。”などという感情論ではなく、最も冷静であり伝統を歴史の教訓を踏まえて成り立つ文化を力点においたドイツの歴史と反省が生み出した故のロジック(理論)なのだ。

一方日本はどうだろう?そんな深い思想などあるのだろうか。普段からアートとエンターテイメントの区別もなく、アートは娯楽になって、生命維持に必要ではない。アートを生業としている人以外で、アートが生命維持に大切だと思っていた人がどれだけこの日本にいるだろうか?
正直このような民衆が民主主義で政治家を選んだとしてもそれは同じような、アート感覚を持った人が大臣になるだけである。
普段からアートの意義を言葉で理屈で理論で話すことを放棄して、「何と無く好き」くらいの娯楽にしていたのに、いざ緊急事態になってドイツではこうだから!と言ってもそれは無理筋である。むしろドイツのアート思想を日本と比べること自体がおこがましいのだ。
アートについて考えてこなかった国民は、アートを守ることはできない。当然のことである。それが民主主義の基本原則でもある。

私は哲学や芸術論が好きで、7年間バンドをやったり、身の回りに役者の友人や映画監督の友人も多い。


ミュージシャンはアーティストと呼ばれる。それもずっと疑問だった。

なんなん?アーティストって。でも自分以外本気で話している人はいなかった。
バンドメンバーさえもそうだった。孤独だった。
実際彼らがアートについて本気で勉強して語っている姿を見たことがない。売れていることが正義=良い芸術だと思っている人が大半を占める世の中ではアートの文化などとうの昔に終わっているのだ。そもそも一部の人をのぞいてアート文化など日本にあるのか。だから、普段から稼げないならやめるマインドのアーティストで溢れかえっている。

彼らは別にアーティストでも何もない。
ただ、好きなことで飯を食べたいだけの人だ。アーティストは自らのその呼称に自覚と矜恃を持たないといけない。
このことを叫び続けた5年間で何度も先輩ともめたし、「アートとかどうでもいい、売れればええねんそれが正義や」と
何度も言われてきた。いかにアートなどどうでもいいかというのを痛いくらい現場で教えられてきた。実体験が強くある筆者からすると、結論は国からの補助を「文化を守れ!ドイツみたいに!」
と言って安易にもらおうとするその内省のない精神自体に問題がある。

アートとはなんなのか?
アートとエンタメの違いは?
商業映画とアート映画の違いは?
などなどもっと私たちが今本当に話さないといけないことがあるのではないだろうか。

子供が大人に緊急事態に財政難のアーティストを守れ!
と少数派の意見が一般化された感情論で縋り付く様はアーティストの姿と最も遠い。アーティストは売れるか売れないか、金があるからやる、金がないからやらない。という常識的な陳腐な世界から隔離されているからこそ、私たちの思いもよらない角度から世界を見せてくれるのである。

だからアートならば、救われるなんて言葉を、否定して、跳ね返さないといけない。なぜならそれはアーティストにとってはお節介であり、一般人のフィクションの世界の常識を侵食させてくるからだ。
アートならば、救われた瞬間、アートの精神を失い、お客様サービス資本主義に入ることを覚悟しなければならない。

国に補助金を出して!なんて私にはとても言えない。
今回のコロナ騒動でいかに、私たちがアートとは無縁の国民かよく分かったし。
そもそもアートとは何か?を問わない限りにおいて日本がアートの文化を持つことは今後もないだろう。当然ながらドイツのようには永遠になれない。

そして、こんなこと書くやつはどんな音楽をやっているのだ?
と思う方は是非こちらを見て欲しい。
それでは!そーりでした。最後まで読んでくれてありがとうございました。

https://youtu.be/jr_w0vykcS0

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