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沖縄の風に吹かれて 第2話

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福島と沖縄

2021年3月、長年勤めた灘中学校・高等学校を退職し、本が売れない日本ではもうすっかりお会いしなくなった専業作家となった。不自由を我慢していれば給料が確実に入る安定と24時間を本に捧げられるがカネは入らない不安定とを天秤にかけて、不安定を取った。

結果、生活リズムだけでなく人とのお付き合いや酒の飲み方も含めてすべてが激変した。なによりも変わったのは、沖縄に戻る頻度と関わる深さである。

沖縄にしょっちゅう戻ってくるんだったら知り合いが多いほうがいいでしょと声をかけてくださったジュンク堂書店の森本店長(現在は同書店エグゼクティブプロデューサー)が、オリジン・コーポレーション代表の首里のすけさんをご紹介くださり、それがきっかけで私もその芸能事務所に入ることになった。そして、沖縄ではテレビにラジオに引っ張りだこのひーぷーさん(真栄平仁さん)とラジオ番組を持つに至っている。

第1話で書いたとおり、2015年からNPOおきなわ学びのネットワークの活動を続けている。沖縄から「夢をかなえる勉強会」を求める高校生たちがいなくなるまでは続けようという話になっている。コロナも終息に向かい、ようやく昨年から英語指導者向けの勉強会は再開した。

ふらりと入った居酒屋のおやじさんに「あんた、琉球新報で見たよ」と声をかけてもらってオリオンを1杯ふるまっていただいた。浦添の公園で見知らぬ女子高生から「最近、首里高校に来ない!」とお叱りを受けることになった。

私はどうしてこんなにも沖縄の一部になってしまったのだろう。

ジョブズの言うconnecting the dotsが私にも当てはまるのだとすれば、沖縄での活動という「点」につながるのは、間違いなく2011年の東日本大震災と1995年の阪神淡路大震災の2つである。私は被災者ではない。しかし、私に大いなる影響を及ぼした被災者がいる。灘校時代の元同僚で、福島に移住をした前川直哉君である。彼のひと言がなければ、そして2つの地震がなければ、私は沖縄にこんなにも関わることはなかっただろう。

2013年6月末日。前川君と私は車の中にいた。神戸市中学校総合体育大会の初戦で負けた直後、生徒たちを帰宅させ、さて我々も帰宅するかと車に乗り込むや、彼が切り出した。「木村先生、もう先生と一緒に野球をすることはなくなるかもしれません」と。

事情を聞くと、その年度いっぱいで灘校を退職し、原発事故の被害(多くは風評被害)で苦しむ福島に移住し、NPOふくしま学びのネットワークを立ち上げると言う。彼は阪神淡路大震災の被災者である。自分の経験を福島で活かすことができるはずだと考え、安定した生活を捨てるというのである。彼の被災経験が、そして学びが、福島で活かせられるのであれば、こんなに素敵なことはない。

私の心にさざ波が立った瞬間だった。「まだ親にも校長にも言っていないんですよ。先生が最初の相談相手なのですが、僕の考えをどう思いますか」と尋ねる彼の横顔に「自由に生きるのが一番じゃないか」と答えると、「先生ならきっとそうおっしゃると思っていました」とにっこり微笑んだ前川君がさらに言葉を続けた。

「ところで先生、福島の子たちに英語を教えてやってもらえませんか。お金は交通費さえお渡しできないんですが」と。突然の展開にわくわくしながら「君からお金をもらおうなんて思わんわ」という会話を会場校の駐車場で交わしたことを鮮明に覚えている。

彼は福島に移住し、高校生無料セミナーを年に数回開催するようになる。そのたびに私も福島各地に赴き、子どもたちに学びの大切さを、そして学びが福島県を支えることになる理由を、説くことになった。勉強会には福島県の先生方が多数参加され、生徒への指導法を学ばれた。生徒たち以上に、勉強会には先生方が参加されているのである。熱気あふれる勉強会が今も続いている。

ある勉強会が終わったあと、前川君が私になにげない言葉を投げかけ、それが私の心のど真ん中に突き刺さった。

 「先生、沖縄が好きなら、沖縄でもこういう活動をすればいいのに」

昭和薬科大学附属高校や興南高校といった沖縄の高校から講演の依頼を受け始めていた私は、沖縄の教育事情が他県のそれとは大きくことなることをウチナーンチュの先生方から聞かされていた。沖縄には進学校がないこと。沖縄は塾通いをする生徒が多いこと。その割に全国学力テストの成績が著しく低いこと。

しかし、だからと言って私になにかできるわけではない。講演に招いてくださった学校の先生方には簡単なアドバイスを送ってはいたが、逆に言えばそれしかできず、もどかしさを感じ始めていた頃だった。

再度書く。前川君の言葉が心のど真ん中に突き刺さった。

興南の先生方に相談をし、2015年にNPOおきなわ学びのネットワークを立ち上げることになった。興南高校の我喜屋優校長先生(当時)にNPOの理事長を、英語科の宮城歩先生に事務局長を、それぞれお願いして快諾を得た。私は年に数回の無料勉強会を開催するようになり、県内の学校から呼んでいただけるようになった。NPOであるから、すべては寄付金で成り立っている会である。生徒たちの笑顔がなによりのエネルギー源である。

阪神淡路大震災と東日本大震災がなければ、前川君は福島に移住をしていなかっただろう。上述の前川君との会話はすべて無かったこととなり、したがって私が沖縄で活動することもなかっただろう。福島と沖縄を結んだ線がどのように進化し、深化して、どのような次の点につながっていくのか、私自身にもわからない。ただ、勤め人をしていたいた頃とは段違いに時間ができた私が、今までの人生で一番長い時間を沖縄で過ごしているのは間違いない。私がこれまでの人生で勉強してきたことが、沖縄の社会や教育にご活用いただけるのであれば、なにより幸甚の至りである。

木村達哉

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