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沖縄の風に吹かれて 第1話

きっかけ

自宅が住民票に記載された場所を指すなら兵庫県西宮市である。奈良に生まれ、幼少期を明日香村と橿原市で過ごした。大阪の高校に通い、京都の予備校にお世話になって、兵庫県の大学に進んだ。大阪の会社で1年働いた後、奈良の学校で10年間勤め、奉公人としての最後は兵庫県であった。この十数年は西宮市に「自宅」がある。

そんな生粋の関西人がどうして年の1/3ほどを沖縄で過ごすのかと問われる。私だけでない。北海道から、埼玉から、東京から、千葉から、大阪から、兵庫から、和歌山から、福岡から、沖縄に引き寄せられてきた人たちにたくさんお会いしてきた。

どうして沖縄という磁石に引っ張られたのだろう。人が違えばその理由も違うが、単一の理由を提示できる人のほうが少数派ではないだろうか。最初は美しい海であったり特有の琉球文化であったりがきっかけになったかもしれない。が、気がつけば得も言われぬ複合的な理由で、沖縄に居座ることが自分にとってもっとも自然だと感じる日があったのではないだろうか。少なくとも私はそうである。沖縄の風に吹かれて、最も自然で穏やかな自分を感じることができるのであって、言葉にするのは難しい。

嘉数高台公園では普天間基地を見下ろすことができる

私の沖縄ヒストリーを思い返してみよう。初めて沖縄に足を踏み入れたのは高2の夏、7月の修学旅行であった。海洋博公園で海に浮かぶ灼熱のアクアポリスを歩き、伊豆見で今では禁じられているハブとマングースの決闘を冷めた目で見、国際通りで要らぬお土産を強制的に買わされる羽目になった修学旅行には楽しかった思い出がない。むしろ、こんなに暑くてじめじめする場所には二度と来ないぞと思ったのを覚えている。

二度目の訪問は大学1年の夏。同じ下宿の男5人で与論島と沖縄を旅行しようと誰かが提案した。修学旅行のリベンジをするつもりで私は参加した。取り立ての免許が嬉しくてレンタカーを借り、当時はまだ沖縄自動車道が開通していなかったものだから、国道58号線をひたすら北上し、辺戸岬を今度は太平洋側に回って沖縄を一周した。しかし、単なる旅行であるから、楽しかったのは間違いないにしても、沖縄に入り浸るきっかけにはならなかった。

家族ができてから、年に一度は沖縄を楽しんだ。恩納村のホテルで贅沢をし、水納島や首里城といった観光地を訪問し、他になにか刺激的な場所はないか、沖縄らしい場所はないかと探し、結局は観光客のために東京の企業が用意した場所を見て回ることになった。土産物屋はほとんどそうした企業が経営していると聞き、興ざめを覚えた。

愛犬さくらと散歩する嘉数高台公園

転機が訪れたのは2013年。昭和薬科大学附属中学校高等学校から講演の依頼が入った。PTA総会で約400名を前に、何の話をしたかは覚えていないが、体育館で60分ほど話したように覚えている。終了後は多くの保護者に囲まれた。当時は同校が進学校とも知らなかった。またその翌年、その講演を知った興南中学校高等学校からも依頼があり、同じく保護者に対して講演を行った。そして、その講演が決定打となった。

講演終了後、同校のひげを豊かに生やした副校長(当時)をはじめとする多くの先生方と那覇のダーツバーで痛飲し、基地問題だけではなく、沖縄にはさまざまな問題があることを知った。特に、英語をはじめとする学力低下の現状について知ることになる。自分に何かできることはないかと考え始めたのは当然の流れである。

学力が低くて悩んでいる子どもたちのために、無料で英語勉強法を教える勉強会を立ち上げないかと提案したところ、沖縄県の先生方が集まってくださった。「夢をかなえる勉強会」と名付けた。全員が手弁当での参加であった。そのうち埼玉や東京、大阪や福岡の先生方が指導ボランティアとして参加してくださるようになった。私の飛行機代と宿泊費も含め、全員が自腹での勉強会である。場所は興南高等学校の我喜屋優校長先生(当時)が「興南を好きに使っていい」とおっしゃった。

始まりはいつも邂逅である。今では琉球新報で連載をしたりラジオ沖縄で番組を持ったりしている私ではあるが、きっかけはやはり人との出会いであった。単なる講演ではなく、興南の先生方との語らいがなかったら、勉強会立ち上げの提案に沖縄の先生方が集まらなかったら、今のウチナーライフは考えられない。

木村達哉

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