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亡き父のあの日を思い出して

今日、5月13日は亡き父の誕生日である。昭和12年の生まれだから、生きていれば86歳。現在の平均年齢からすれば生きていてもおかしくはないが、長いこと煙草を飲んでいたし、なにより酒を毎晩飲んでいては長生きできないのもしょうがない。

父が今の私の年齢のとき、すでに半身不随になっていた。57歳のときに母が癌で入院し、その後に父が病気を発症した。私は奈良の橿原市に、両親は大阪市内に、それぞれ住んでいた。父は、母の入院先に日参していたが、ある日のこと、彼自身の体が動かなくなった。

早朝、自宅の電話が鳴った。父の言葉が聞き取れない。はっきりゆっくり話してほしいと言っても、まるで酔っ払いが喋っているような、否、それ以上にたどたどしい言葉でなにやらぼつぼつと電話口で喋る父。なにかがおかしいと思い、車に飛び乗った。西名阪自動車道から阪神高速へ。大渋滞を降りて、彼のアパートに着いたのは10時半頃だったか。

父は狼狽していた。口から発する音のすべてがア行だったと言えばわかっていただけるだろうか。「うまく話せない」だと「うあうああえあい」となる。話せないだけでなく、立つことも何もできなかった。父をマツダのワゴン車の後部座席になんとか乗せて、近くの大きい病院に駆け込んだ。

病院正面でエンジンをつけたまま乗り捨て、申し訳ありませんがなんとかしてくださいと受付で叫んだ。車椅子を転がしながら走ってくる看護師さん。車から転げ落ちる父。診断は脳梗塞であった。その時、すでに右半身は動かなくなっていた。だから話せなかったのだ。立てなかったのである。

この数日がヤマという。しかし病床に空きはないという。大阪の、次は奈良の、どの病院に電話をかけてもベッドに空きは見つからなかった。ぐずぐずと泣いている父を見るのは初めてだった。電話をかけ続ける先生を見つめるしかなかった。「あの、今は奈良で働いているのですが、この4月から神戸で働くのです。神戸の病院はいかがでしょうか」と申し上げる。先生が「神戸のどこですか」とおっしゃる。
 
よくわかりません。私も職場には一回しか行ったことがなくて。住吉だったか住吉川だったか…川沿いにある学校でしてと答える。その地名を聞いて、あれっという顔をする医師。住吉?学校?それって…高校ですか?

「神戸の住吉とかいうところに灘校という学校があるんですが、4月からそこの英語教員として働くのです」と申し上げた。難しい顔をしていた先生は急ににっこり笑って「私の母校です」とおっしゃった。W先生はお元気ですか。あぁ、そうなんですね、そりゃよかった!私の担任をしてくださっていたんです!と、父のことなど忘れたかのように快活に先生は話しだした。

そして少し考えたあと、「ベッドがないのは事実なのですが、実は小児科ならあるんです。少し騒がしいですが、我慢できますか」と先生はおっしゃった。藁にも縋る思いでいる患者にとって、小児科であろうと何科であろうと天国のように思えた。否、天国に行くと困るのだけれど。

父はその後、後遺症で右半身が一切動かなくなり、障害者となった。とはいえ、15年間も生き永らえることができたのは、転職先の学校を卒業したお医者さんのおかげだと思っている。医師としての判断が倫理的に正しかったのかはわからない。しかし、少なくとも父の命が助かったのは事実であるから、その先生は私たち親子にとって間違いなく神様であった。

5月13日は父の誕生日。せめて私が生きている間ぐらいは祝ってやろう。今朝は当時のことを思い出して、備忘録のつもりで文章を書いた。私はまだ天国に旅立つつもりはまったくないが、どれぐらいかして私も鬼籍に入れば、親不孝を詫びながら一緒に大好きだった菊正宗を飲みたいなと思っている。

5月13日朝 木村達哉

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