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背中を撫でてほしかったのに 第2話

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 「ほんとだ。珍しい。よっぽど疲れてるんじゃないの?」
 母と妹に言われるまでもなく、確かにわたしは職場のことを家で話したことはなかった。なかったというより、避けてきた。あえて。父から話を振られることは、ただの一度もなかった。彼自身、なにか引け目のようなものを胃のなかでころころさせていたのだろう。
 「この餃子、美味しいね。正解だったね、今日の餃子ね」そう言いながら、餃子の半分にたれをつけて口のなかに放り込む美鈴の関心が、実はリビングの明かりで光るその白い食べ物なんかではなく、わたしに向いていることぐらいはわかる。
 母はすでにお箸を置いて、わたしをじっと見ている。こうなると、逆に話がしづらい。どうしてわたしは学校のことを話題に出してしまったんだろう。話そうとして話したわけではないから、どうしてなのかは自分にもわからない。やっぱり疲れているのかもしれない。
 「英語科の新人君が分厚い英和辞典で生徒を殴った。授業初日に」
 2匹のトイプードルが動きを止めた、と思う。わたしは、自分の話に対してなんの関心もありませんよとでも言いたげに、2個目の梅干しをお箸の先でもて遊んでいる。やはり今日の気分は餃子ではない。
 「で、どうなったの?」
 母が心配しているのは殴られた生徒でも殴った沢木先生でもない。わたしの職場である西倭学園そのものであることをわたしは知っている。
 「それって体罰なんじゃないの?」
 美鈴もお箸を手から離し、わたしをじっと見つめている、のだと思う。
 「そうだね。井村校長がその先生にクビを宣告したんだけど、いろいろあってさ、クビはなしになったわ」
 自分でもびっくりするぐらい、でも実は家庭訪問に行った福田先生と沢木君のことが今でも気になっているのに、軽い声が出た。
 「その生徒はどうなったの?」
 母の声が少し震えているようにも思う。リビングの白い壁紙が今日は少しまぶしい。
 「吹っ飛んだらしい。その先生、格闘技をやっていたんだって。で、今は学年主任と一緒に謝りに行っているよ。さすがにもう終わっていると思うけどね」
 「ねぇねぇ、お姉ちゃんは関係者じゃないんだね。だけどさ、マスコミとか心配だね。大騒ぎにならなきゃいいけどさ」
 妹の声が最初はわたしに、次に母に向かって飛ぶ。
 母が少しうつむいた、ように思う。目をしっかりと見開いたままで。
 「ごめん、食べよう」
 わたしの声がトリガーになって、また2人は手にそれぞれのお箸を取った。わたしは、なにをどうしていいのかわからず、ふぅと息を吐いて、そして白熱灯を見上げた。
 「潤子、あなたはそれでなにを考えているわけ?」
 そうだね、こんな状態だとなにもなかったなんて嘘っぽいよね、と思いながら、でもわたしは、わたし自身がどう説明していいのかわからなくて、じっと母を見つめた。
 「どうしてなんだろう。わたしね、その先生、沢木先生っていう人なんだけど…」
 妹がちらっとわたしに視線を投げかけた。そうじゃない、好きになったわけじゃない。いや、好きになったのならぜんぜん問題はない。母は何も言わずにわたしの顔を、いつもどおり見ている。そう、いつもと同じ、マシュマロみたいな優しい顔で。わたしも母や美鈴みたいなふわっとした顔に、まぁるい表情の顔に、生まれたかったな。
 「うまく言えないんだけど、その人がクビじゃなくなったことがわかって」
 白熱灯が目薬をさしたときのようにぼやけた。どうしてわたしはこんなにも動揺しているんだろう。胃の中に何匹かの蝶がいて、わさわさと飛び交っているような気分だ。
 「その人がクビじゃないことがわかって、ほっとしたわけ?」
 妹が話し終わるか終わらないうちに、わたしは、違う、と乾いた声を出した。
 「わたし、背中を撫でたの」
 「誰の? その先生の? 別にいいじゃん、その先生も安心したんじゃないかな」
 「美鈴、あのさ」
 わたしはすっかり美鈴を、まるでライオンに挑むインパラのように見ている。もう勘弁してほしいという気持ちと、だけど楽にしてほしいという気持ちとが、ラットのようにくるくると回転している。美鈴は相変わらずお箸を動かしている。壁時計の短針がそろそろ8の数字を指そうとしている。換気扇のぶーんが聞こえる。戸外で小さいクラクションが声を上げる。
 「男の人の背中を撫でたことある?」
 「わたしは、まぁ、あるかな、わかんないよ。考えたこともない」
 「特に親しい訳ではない男の人の背中なんて、普通は撫でないよね」
 わさわさしているのはそれが原因か? なんだか違う気もするが、違わない気もする。
 「お姉ちゃんがその先生の背中を撫でたのが、なにか問題になっているの?」
 「問題になんかなっていないわ。むしろ誰も気にしていないと思う」
 そう、わたし以外は誰も。
 小学生の頃、運動会が嫌いだった。どうして男子と手をつないで踊らなければならないんだろう。どうして楽しくもないのに楽しそうな顔をしていなければならないんだろう。遠足ではどうして男女2列で歩かねばならないんだろう。わたしが手をつないだ男子たちはどんな気持ちだったんだろう。
 中学からは水道橋駅の近くにある女子校に通ったわたしは、もう愛してもいない男に触れることなどなくなった。大学に行ったあとは、入ったサークルにほとんど男がいなかったということもあって、嫌悪感と闘わねばならないような状況にはならなかった。
 「お姉ちゃん、頭がいいからいろいろ考え過ぎちゃうんじゃない? だいたい東京大学を出て、教師になるのが間違いだったんだよね。お父さんが悪いんだけどさ」
 彼女の、風の中で白い雪が飛び交うような軽い言葉が、今は頭に心地よい。
 「お父さんは?」
 反射的にわたしは口を開いた。今日のわたしはどうやら変だ。言葉が意識より先に出る。
 心配そうにしながら姉妹の会話を聞いていた、でもしっかりと口を動かし始めていた母が「帰りに立川に寄るから夕食は要らないってLINEがあったわ」と声に出した瞬間、わたしの体の中で不快なほど動いていた毒虫がぴたりと静止した。まるで回転していた風鈴が逆回転を始めるときに一時的に止まるように。
 立川と言えば、薮内健太郎の自宅があって、福田先生と沢木君が、もしも薮内の母親に今日の体罰を許してもらえたのであればではあるが、たぶん今頃は赤ら顔で語り合っているはずだ。福田の「沢木はん、気にせんともっと飲まなあかんがな」という声と、沢木くんがいつもどおりに頭を下げながら「ありがとうございます」と恐縮する声が、頭の中ですっと流れた。
 確か、えらいええタイミングで校長室に理事長が電話をかけてきてな、と福田は言っていた。そして、薮内に対して辞書を振り上げた二人と父が同じ立川にいて、そして…話をしている可能性が高い。
 なんだ、そうだったのか。



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