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背中を撫でてほしかったのに 第1話

 美鈴の声が階段を駆け上ってきた。
 わたし、寝ちゃってたのか。東京湾の底で主役面してふんぞり返っているヘドロのような疲れが抜けない。いま何時なんだろう。あぁ、もう19時を過ぎてる。
 美鈴の声が一階からまた聞こえる。返事をする気分になれない。わたしの頭の形がくっきりと残っている枕に目を落とす。その次は机。その上にいつの間にか置かれた通勤鞄。人は起き上がると、どうしていろんなものを静かに見つめるんだろう。気持ちがわたしをここじゃない世界に戻したがっている。でも、理性が一生懸命わたしを現実につなぎとめようとする。気持ちと理性の綱引きは、わたしの場合、たいてい理性が勝利する。
 白い枕にピンク色の枕カバー。この枕カバーは誰が選んだんだっけ。私はピンクなんて絶対に選ばない。わたしが選ぶとしたら茶系、もしくは薄いブルー系。きっと美鈴が自分のを買うときに、一緒に買ってきたんだろう。あの子ならピンクを選ぶ。
 ふわっとドアが開いた。ひんやりした空気がわたしを包んだかと思うと、頭をぶんと揺さぶった。まぶたはまだ眼球の上半分を覆っているかもしれない。でも、少なくともほんの少しだけ脳が目を覚ました。口の中にレモンを突っ込まれた気分。
 わたしとは違う、鈴のようなまん丸の目が飛び込んできた。美鈴とはよく名付けたものだ。
 「ご飯だってば!」
 「あんたね、ノックぐらいしなさいよ」
 「あんたね、返事ぐらいしなさいよ。今日は餃子パーティーだよ! 冷めると美味しくないから、早くおいでって!」
 美鈴はそう言うと、ドアを開けたまま、階段をどたどたと駆け下りていった。風のようだ。それにしても美鈴は可愛い。そして、いい子だ。でも、餃子か。わたし、あまり欲しくないな。できれば、もっとあっさりした夕食にしてほしかった。とは言っても、作ってもらっているのだから文句は言えないか。
 よっこらしょという声に背中を押されながら、ついにわたしは体をベッドから降ろした。仕事を持ち帰っているから、餃子でエネルギーを蓄えるしかない。というか、そう思うしかない。あまり食べる気にはならないけれど。あぁ、せめてにんにくは抜いておいてほしい。
 半開きのドアを右手で押し、這うようにして廊下に出た。這っているわけではないけど、心は力尽きた兵士みたいに、みっともなく床を這いまわっている。それにしても今日は疲れた。働き始めてから2年。それと同じぐらいの仕事量を今日1日で終わらせた気分。だとしたら、明日から休んでもいいよなぁ。本当にそうならいいなぁ。行かなくても特に誰も困ることはないし。
 リビングにふらりと現れたわたしには目もくれず、母と妹はシンクに向かって仕事をしている。何年か前に旅行で行った北海道の漁港で見た漁師さんの奥さん連中を思い出した。あれは確か寿都漁港だったっけ。捕まえてきたばかりの魚たちを、いちはやく旅行客であるわたしたちにふるまうために、横一列に並んでさばいてくれてた彼女たち。あの人たちは元気でいるかな。
私はよっこらしょと、椅子にお尻を落とした。
 「座るのによっこらしょもないでしょ」と美鈴が背中を向けたまま言う。
 「わたし、手伝うことある?」
 「ない。あと3秒でできるよ、待ってて!」
 夕食の準備があと3秒でできるわけではない。それぐらいのスピードで頑張っているんだと言いたいとき、美鈴はいつも「3秒」を使う。おそらく、若い子たちの間で流行っているんだろう。と言っても、わたしだってまだ若いほうだと思うけど。
 大学を出て3年目。世間的には若いはずだ。でも、職場には同級生たちがほとんどで、若手という扱いはされない。それに、わたし、若い子たちが好きそうな音楽には興味がないし、スマホで動画を視ることもない。ユーチューバーなんて誰も知らない。土曜日や日曜日になると異性や同性の友達と原宿や渋谷に繰り出して、高いトーンの声をきゃんきゃん発しながら人の波の一部になることには、ひとかけらの興味もない。
 できた!という声が躍っている。わたしがリビングに降りてきてから、母はまだ何も声を出していない。駐車場の回転台の上でゆっくりと回りながら向きを変える車のように、わたしのほうに体を向けた母の両手には、大量の餃子が湯気を立ち上らせていた。水屋から妹がお手塩を出す。餃子のたれもお手製なのか。市販のたれでいいのに。
 「わたし、それじゃなくて赤い柄のお手塩」
 「おねえちゃん、まだ若いのに小皿のことをオテショウ?とか言うの、なんとかならないの。食器棚はミズヤ?だっけ。まだ25歳でしょ」
 そうは言っても父も母も、当然ながら祖父も祖母も、お手塩や水屋という言葉を使いながらわたしを育ててくれたのだ。今さら小皿や食器棚という言葉に置き換えることなどできない。そう言いたかったが、妹に説明するのが面倒で、わたしは黙ったまま赤い柄のお手塩を受け取った。
 「あんたね、疲れているのはわかるけど、疲れているなら疲れているなりの恰好で寝なさいよ」
 はじめて口を開いた母の言葉には矛盾がある。疲れているから着ているスーツも脱ぐ気にならず、そのままの恰好でベッドに倒れ込んだのだ。チャンピオンにボディーブローを打たれた挑戦者のように。したがって、わたしは今もまだ紺色のスーツを着ている。上着だけは脱いでいるけど、どこで脱いだのかも覚えていない。
 「スーツのジャケットって」
 「玄関に置いてあったわよ」と母が言うと、「ありゃ置いてあったって言うより、落ちてたって言うのが正しいね」と美鈴が突っ込んだ。「百貨店で買ったいいやつでしょ、あれ。あんなことすると、しわしわのぐちゃぐちゃになっちゃうよ、お姉ちゃん」
 わたしが立ち上がろうとすると「ハンガーに吊っておいたから大丈夫」と言って、美鈴は腰を下ろした。この子は本当に可愛い。私には「ツンデレ」という言葉の意味が今ひとつよくわかっていないが、見た目の冷たさと心の温かさが同居しているわたしの妹こそ、その言葉をもっとも体現している人間なのではないだろうか。
 「ありがと。今日は疲れたわ」
 「毎日言ってるじゃないの。大丈夫なの?」
 そう言うと、ようやく母も座った。
 食事のとき、誰かが立っていると落ち着かない。先に食べ始めてと母はよく言う。でも、全員が座っていないとわたしは食べられない。先に食べ始めると薄情に思われるのを恐れているわけではない。心がわさわさして、落ち着かないのだ。
 「毎日疲れたって言ってるよ。気をつけないと心が壊れちゃうよ」
 美鈴の言うとおりかもしれない。今日の自分が取った行動を振り返るに、とても自分らしいとは思えない。心が壊れるって嫌だなぁ。それなら体が壊れたほうがましだ。
 「そこのカイロプラクティックとか行けばいいんじゃない?」
 母はいつも気軽にそう言うが、カイロプラクティックという看板に心は動かない。誰か知らない人に体を触られるなんて、考えただけでも身体の中からなにか酸っぱいものが湧き上がってくるような気持ちになる。
 いただきます、と小さい声を出し、お箸を手にした。まだ食べる気持ちにならず、母と妹が作った餃子以外のものでわたしに食べるエネルギーを与えてくれるものがないかを探した。梅干し。これが今のわたしにはフランス料理のコース以上のごちそうだ。
 ひとつつまんで口に放り込む。心が、そして体が、なんだか少し動いた気がする。
 「今日ね、新人の英語の先生がさ」という言葉が自動的に口から出てきたのに、わたしは驚いた。話そうと思って話したわけではない。言葉が主体性を持って、口の中から出てきた。
 美鈴は餃子を口に入れたまま、トイプードルが飼い主に叱られたような目でわたしを見ている。母は手からお箸を離し、これもまたトイプードルの目でわたしを見ている。
 「潤子、あなた、就職してから初めてね。職場の話をするの。どうしたの?」

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