ホストファミリー11人にカレーをふるまい、「誰かのために」の順番を考えた #KUKUMU
「この仕事が楽しくて、仕方ないよ....」
2年ほど前にそう言っていたある女性の表情が忘れられない。
引きつって歪んだ、不器用な口角。
ゆるむ目尻とは対照的に、どこまでも沈んでいく沼のような瞳の奥の色。
彼女は「人のために」と、教育に関する仕事をしている人だった。
私は一度挨拶をしただけだったから、彼女の本心がどうだったかなんて分からない。だけどその日、私が彼女から感じ取ったのは、言葉の端々から響く、か細い悲鳴だった。
誰かのためになっているはずの彼女は、どうしてそんな顔をしていたのだろうか。
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留学でポートランドに来て、3ヶ月。
何か特別なことをしなくても、自然と自分が満たされる日が増えた。大変な時もあるけれど、それ以上にずっと夢だった海外で、日々を過ごせていることに気持ちが満たされる。
友人の彼氏候補を全力で見定めること。
小さなお店の、名の知らない革のバッグにときめくこと。
バスを降りた瞬間に広がっていたピンクに燃える夕日をぼーっと見ること。
「あ。今、あたりまえのように生活できている」そう感じる度に毎回じーんと来るし、たまに誰にも気づかれないようにひっそり泣く。
自分がこうして満たされる時、たまにあの日の彼女を思い出す。「誰かのために」と仕事をする以前に、彼女自身は満たされていたのだろうか…..。
留学に来たばかりの私は、言葉の壁もあって自分のことでいっぱいいっぱいだったけれど、今は違う。
いつもお世話になってるホストファミリーにお返しがしたい。
そんな気持ちが高まっていた時、日本人から来たもう1人の留学生と一緒に、ホストファミリーに日本食を振る舞おうという話になった。
何を作るか話していた中で、私は一番に「カレーを作りたい!」と提案した。
直感的にそう思ったのには、理由がある。この夏、歳の離れたネイティブの友人たちと、ポートランドから車で1時間と少し海の方へ走ったところにあるティラモックという地域の山奥でキャンプをした時のことを思い出したのだ。
私以外にも日本人がおり、その中の1人が「キャンプはカレーでしょ!」と日本風のカレーを振る舞ってくれた。
スマホは「No service」でインターネットはつながらない。
そんな異国の地の山奥で食べた、白いご飯と熱々のカレー。
その感動にすぐシャッターを切ったが、電気も綺麗なお皿もない山奥でタッパーに入れただけのカレーは、全くというほど写真映えしない。
だけど今でもその写真を見る度に、その時の満たされる気持ちを思い出す。
そしてそのおいしさを「いつか、私が誰かへ」とひそかに企んでいた。
早くも、そのタイミングがやってきたのだ!
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カレーに加えて、ルームメイトと2人で作ることが決まったメニューは、肉じゃがと炒飯。さらにデザートに、フルーツ飴といちご大福。
東京で一人暮らしをしていた時、時間があれば自炊はしていた。だけど、1人分なんてそんな大した量じゃないし、到底、人に言えるようなごちそうを作れるわけがない。だけど今回ばかりは、違う。大切な人たちのために、たくさんの料理を一度に作るのだ。
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最初の私の担当は、カレー。
久しぶりの料理で、想像とは違ってトントントン....と包丁は進まない。にんじん、玉ねぎ、じゃがいも、鶏肉。切り終えた具材は不恰好だけど「それはそれでいいや」と思ってしまうほど、手間暇をかけたものは、不思議とかわいくみえる。
鶏肉に塩胡椒をふって揉む。その間にフライパンを用意し、油をひき、温めておく。鶏肉をフライパンに並べ、表面にサッと焼き色をつける。最後は大きな鍋で、水と野菜と煮込むだけ。
いつの間にか私は、大盛況の小さな定食屋を切り盛りするおばちゃんの気分だった。次は自分が何をするかも、周りが何をすると良いかも、すでに頭にあるのだ。カレーをぐつぐつ煮込むのを見届けても、休む暇もない。さて。そのあいだに次は、炒飯といちご大福だ....。
具材が煮えたら、日系スーパーに売っていたカレーのルーを投入。ポチャンと入れて、しばしかき混ぜ、とろり。懐かしいスパイスの匂いが溢れてくる。ああ。これだ、これだ。
と同時にぐ〜っと、お腹も鳴る。
そうだ。私も、お腹が空いていたんだ。
集中していて、完全に忘れていた。
「誰かのため」は、それをしている時は、そうは思わないものだ。
気づけば、料理開始から2時間も経っていた。
そろそろ完成するぞ!という時に、ぞくぞくとホストファミリーが帰ってきた。しかも、彼らの親戚までも連れて。
下は3歳、上は60歳。平日だというのに、わざわざ私たちのごはんを食べるために家に11人も集まってくれたのだ。いつもはのんびりと静かなダイニングも、今日ばかりはてんやわんや。
そして「これは何?」「どうやって食べるの?」と一つひとつ聞いてくれるから、つい嬉しくなって「日本のカレーだよ。お米と一緒に食べてね。」と自慢げに説明する。
キリスト教の彼らは、食事の前に毎回、神に祈りを捧げる。今夜は、「日本から来た彼女たちが素晴らしい料理を作ってくれた」と付け加えた。
静かの時間は、束の間。
食前の祈りが終わると、彼らは目の前の料理を、自分のお皿へと分けていく。彼らも、お腹がぺこぺこだったのだ。
そして食べるとすぐに、「おいしい!」と「作ってくれてありがとう!」と次々に声をかけてくれた。
私の方が「ありがとう」がたくさんなのに。
私がこの地で満たされているのは、身も心もせわしくなくなる留学中でも、彼らが安心できる場所があることを示してくれるからだ。
学校に行く前の「今日もいい日に!」という一言。
ごはんを一緒に囲んで、今日のできごとを聞いてくれること。
毎週末に一緒に映画を見ること。
私、木村りさという存在がここにいることを、そのまま受け入れてくれるのだ。
そんなことを一人、ぼーっと考えていたら、気づくとテーブルの上の料理は綺麗さっぱりなくなっていた。
たくさんつくったのに、あっという間。
調理時間2時間。終了時間20分。
私が「お口に合うかな?」とみんなの顔色を伺う隙を与えないほど、彼らは綺麗さっぱり食べてくれた。
「ゆっくり味わってもらう」という想像とは、違った。
それでも、大切な人たちに「ありがとう」を伝えられたかな。
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まずは自分が満たされていること、余白があることが大切。
そうすれば勝手に誰かのために、何かしたくなってしまうものなのだ。
私が、この順番通りの「他者貢献」ができるようになってきたのは、やっとここ半年くらいのことだと思う。
自分を満たすことからはじめるのは、自然な流れのはずだけど、いつの間にか忘れてしまっている時もある。自分を差し置き相手のことばかりを満たそうとすると、時に苦しくなってしまうのだ。
あの時の彼女も、今、まず自分の心が満たされることを少しでもできていますように。
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文・写真:木村りさ
編集:栗田真希
いつも、応援、ありがとうございます!サポートいただいたお金は、6月から約8ヶ月間のアメリカの留学費に全額使い、その体験を、言葉にして、より多くの人に、お返しできたらな、と思っています。