黄たまご

本当のことを話そうか

パン屋のひさしの下が正解だったのかはわからない。でも、もうそこしか残されていなかった。何もかもが唐突で、ごく自然だったから。

「ハンカチ貸しましょうか?」

そう声をかけていいものか迷ってしまうほどに、その人はぐっしょりだった。外回りの最中だったのか、ワイシャツが肌に張りついて冷たそう。できることなら、この店のパンを2千円ぶんくらい差し出してイーブンにしてあげたい。なんせ、この夕立だもん。

「大変ですね、お互い」

そう声をかける間もなく、彼はスマホで話し始めていた。ポタポタと彼の肘から雫が落ち、雨音に音符をいくつか足していく。雨は止みそうになく、風はただ笑っていて、僕らはパン屋の軒先で曇天を見つめていた。

「本当のことを話そうか?」

彼はスマホを耳に押しあて、そう口を動かした。黙り込んだまま目を細めてる。その表情が彼には抱えきれなくなったいくつかのことを物語っているようで、僕は目をそらすしかなかった。

彼がそのあと何を話し、そして何を話せなかったのか僕は知らない。本当のことを話せたのかもしれないし、あるいは本当のことなんて誰一人知ることができなかったのかもしれない。選ばれたかのように僕らはひさしの下に集まり、どうしようもなく空を見つめてた。まるで、自分の人生を眺めるみたいに。

「とにかく帰るから」

彼はそう言い切ると、空の下へ駆け出していった。

雨が上がる。
風が季節のネジを巻いていく。
風船から下がった紐をパッと手放したみたいに雨粒は地面から切り離され、空の高みに向かって見えない力で引き上げられていく。この空が持っている魔法のような青さが、またひとつ僕らの思いを引き受け透明にしていく。

晴れ上がった空もいいけれど、思いがけない夕立も悪くない。思い通りにはならない天気の下で僕らは大人になっていくんだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?