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『漂泊のアーレント 戦場のヨナス』と〈他者〉の視線

 私の研究者仲間であり、友人でもある二人が共働して作ったこの作品は、私にとっても非常に感慨深い作品でしたので、簡単な書評というか感想というか、思い出話などを書きたいと思います。感慨深いというのは、実は、それまでハイデガーの研究のみで発表・論文を書いていた私がはじめて、ハイデガー以外の思想家の思想を用いて行った発表・論文が、まさに「アーレント」と「ヨナス」の思想を組み合わせたものだったためです(実は、著者の一人である戸谷さんにはじめてお会いしたのも、その時の会場でだったと記憶しております)。
 一応、以下のサイトから読むことができます。

http://heideggerforum.main.jp/ej7data/kimura.pdf


 その際には、ヨナス研究の権威である先生からは、これまでに「アーレントとヨナス」を組み合わせる研究がなかったために、新奇な際物のような扱いをされたことを覚えています。つまり、数年前までは、この二人が親友であったことは知られていても、その思想的な交錯についての理解は、ほとんどされていなかったということです(実は、ドイツ語の著作では、二人の思想を主題的に扱ったものがあったのですが、その先生は知らなかったのでしょう)。まあ、私の論文を今読み返すと、イマイチなところがあるのも確かですが・・・
 そのように、ハイデガー以外ではじめて本格的に取り組んだ二人の思想家が、本書において大々的に取り上げられるようになったこと、そしてそれを執筆したのが、アーレント研究とヨナス研究において、将来を嘱望されている若手の研究者二人であるということを嬉しく思います。

 『漂泊のアーレント 戦場のヨナス』の内容は、アーレントとヨナスという二人の思想家の生い立ちから晩年までを辿っていくという編年体のスタイルとなっています。特徴は、伝記的な事実を踏まえ、両者の軌跡の交錯を丹念に叙述しながら、そのつどの年代における思想的な展開も紹介するという、二人の思想家についての伝記であるとともに、両者の思想の入門書ともなっているという点です。こういった著作ですと、得てして、史実的な部分と思想的な部分のバランスをとることが難しいものですが、二人の著者の活発な意見交換によって、多すぎず少なすぎず、必要な情報が適切にまとめられているという稀有な著作となっていると思います。

 先程も言及したことですが、この著作の特徴は、アーレントの研究者である百木さんとヨナスの研究者である戸谷さんが、それぞれの個所を分担執筆した、というわけではないということです。最後の第7章以外は、主にアーレントの部分は百木さんが、ヨナスの部分は戸谷さんが書き上げたものを基に、二人で意見を出し合いながら仕上げていったということです。このことは、著作の全体を、多角的でバランスのとれたまとまりのよいものにもしているでしょう。
 また、単なる分担執筆ではなく、一緒にひとつの文章に向き合うということは、しばしば軋轢を生みます。その懸念は、後書きに書かれている百木さんから戸谷さんへの言葉「僕たちは一緒に執筆することによって、もしかしたら対立し、仲違いしてしまうかもしれない。それでもやってみるだけの価値はあると思う」(343頁)という言葉に現れているといえます。「言葉を書く」ということは、特別な自己表現という性格をもっていますので、批判されたり、修正されたりすることに過度の苦痛、不快感を覚える人がいることは事実です。私自身、共同執筆をすることで軋轢が生じたり、書いた原稿に編集委員から趣旨を理解していない過度の修正を要求されたことによって、それまでの関係が壊れてしまうという苦い経験したことがあります。そうしたことを踏まえると、この著作を完成させた後も協力できる関係が維持できている二人の関係は、ある種の理想的な共働のあり方であるのではないかと、少し羨ましくなります。

 このような共働は、前述のしたような記述のレベルでのバランスの良さ以上の効果を上げているように思います。それは、他者の眼を意識することによる、考察や記述の深まりと呼べるものです。日記などの独語は別として、書くという行為は、それが読まれることを意識した行為であるといえます。特に公開的な書物は、不特定多数の他者に読まれることを意識しながら、つまり鑑賞者の視線を汲み取りながら、書かれることになります。しかしながら、不特定多数の他者は、不特定であるがゆえに実在性が曖昧で、具体的な眼差しとなりにくい、ともいえます。
 この本の特徴は、近接した研究分野で、年代も近い二人が、共働したという点にあります。おそらくその過程で、百木さんは戸谷さんの、戸谷さんは百木さんの視点を想定しながら執筆していたと思いますし、また実際に読み合わせる過程で、その想定の外からの様々な意見・解釈に遭遇したのではないかと思います。そのような〈他者〉の眼差しが考察と記述をより深く豊かなものにするように作用したでしょう。
 また、それぞれが専門とする、アーレント、ヨナスという二人の思想家の視点の交錯が、さらに二人の生涯と思想についての考察を深めることに寄与しているでしょう。一見すると、ヨナスの視点からアーレントの生涯と思想を眺めること(あるいはアーレント視点から同様のことを行うこと)は、視点を特定するために、記述を制限するようにみえます。
 しかし、そもそも神のような客観的な視点に立ちえない以上、すべての歴史記述は完全に客観的ではありえないのであり、歴史家の(意図的/非意図的に設定した)視点からのものであるといえます。このように客観的で網羅的な歴史記述というのはそもそも困難なわけですが、それを心掛けることはできないわけではありません。それでは、そのようにするべきでしょうか? 必ずしもそうとはいえないと思います。思想家の生涯や思想を網羅的に取り上げて記述することは、一次資料としては有意義であったとしても、視点が定まらず焦点がぼやけるということにもなりかねないために、その紹介としては必ずしも有効とはいえないためです。

 『漂泊のアーレント 戦場のヨナス』という著作は、著者二人の視線の交錯だけではなく、仮構されたアーレントとヨナスの視点から相互の思想と生涯を眺めるという重層的な構造をもつことによって、それぞれの生涯と思想だけを取り扱っていたのでは見えてこなかったような、独自のより深い記述が可能となった作品といえるのではないかと思います。

 現代のテクノロジーの発達によって、予見不可能となった世界の中で、人が生まれてくることをいかに守りうるのか、そしてそのような世界で人が生き、責任を果たすとはいかなることなのかに関心がある方は、是非ご一読をお薦めいたします。


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