【短編小説】パールロード

私は暇があればトイレの個室に篭っている、薄暗い人間だ。
いつだって痛くて重くて苦しい。
何がと言われても分からない。ただ胸の中に大きな深い暗闇が広がっているだけだ。
深淵に呑み込まれてしまう自分自身の脆弱さを自覚する。
自分と世界との境目が激しく揺らいで痛い。
トイレの中で苦しみ悶え、吐き気を催す。

死にたいかと聞かれたら、別にそうでも無い。
生きたいかと聞かれたら、別にそうでも無い。

なんというか、ただ、生まれたから生きている。
いつ死んだって、何も変わらないのだ。
今もずっと、ぬるま湯に浸かったまま、死に続けているような感覚だ。
それでもまだ、世界が怖い。

私は人生を、世界を呪っている。
なぜかと問われれば首を捻る。
ただ、ただ鬱陶しいのだ。
幼少期から浴びせられてきた嘲笑が、積もり積もって私をこんな人間にしたのかもしれない。
けれど、考えたところで無駄だ。何も解決しない。私の事は変えられない。けれど、悩むことを辞められない。
私はそういう人間なのだ。
無意味で、無駄で、無価値な。

ある日、がらんどうの身体を引きずって歩いていると、小さな白いものが落ちていた。
それは安物のアクセサリーに使うような、イミテーションのパールだった。
この世界では何が落ちていても気にならないが、妙に白いそのパールが何故か気になった。
手に取ると、それは妙に軽く、少し土で汚れていた。どこからか転がってきたのだろうか。

辺りを見回すと、その白い粒は点々と連続して落ちている。
ヘンゼルとグレーテルがちぎったパンみたいだ。
何を思ったか、私はそのパールを辿ることにした。

どこまでも、延々と続いている。
私はそれを延々と辿り続けている。
街の中から暗い路地、公園の隅を通り、街の中をぐねぐねと、蛇のように落ちていた。

もうどのくらい歩いたかわからない。ただ、拾い続けている。
もしかしたら本当にヘンゼルとグレーテルがこのパールを落としていて、それを私が辿っているのかも知れない。
そうしたら、この先にはお菓子の家があって、魔女に二人は捕まっているのだろうな。
そう思いながら辿る。もう足が痛くて動かなくなってきた。あまりの痛さに顔を上げると、パールの道はビルの中に繋がっていた。
ビルは、薄汚れている。窓の周りは黒ずみ真っ黒で、中に見えるカーテンは擦り切れてボロボロの様だった。
中に入って良いものか。こういうビルは、立ち入ったら不法侵入になるんだっけ。そこまでのリスクを冒してまでこのパールを追う必要性はあるのだろうか。
いや、無い。そう思い踵を返してパールの道を戻っていく。
しかし、胸に何かがつかえていた。ワインのコルクみたいにきっちり胸につかえていた。
何故だろうか。ここまで歩いてきて時間を浪費したのが悔しいのだろうか。こんなことに人生の時間を割いてしまったことが悲しいのだろうか。
違う。私はパールのその先が気になるのだ。
ただ、それだけだ。他に意味なんて無い。
結局、ビルの前まで戻ってきてしまった。

ビルの中に入る。別に何にも無い。
けれど、パールは丁寧に転がっていて、開け放たれた非常階段の一段一段に供えるように転がっていた。
一段、一段踏みしめながら歩いていく。
ブリキがカタカタいう音が、誰もいないビルに響き渡った。
じきに階段は終わり、扉の前に着いた。扉の目の前にも、パールは転がっている。
これで最後なのだろうか。
扉を開けるか否か。
この扉を開けてしまったら、そこには魔女がいて、私を燃やしてしまうのでは無いだろうか。
いや、流石にそんなことはないか。けれど、開けてしまったらもう後戻りは出来ない気がした。
そう考えたものの、どうしてもその先が気になって扉に手をかけた。
ここまで来たのだから、最後を知りたい。

扉を開けると、風が吹き込んできた。爽やかな初夏の風。
土埃の香りが、鼻腔をくすぐる。
そこは屋上だった。
なにも無い。心配も、期待も、無駄だったのだろうか。
肩を落とす。足元を見ると、パールが転がっていた。
屋上でも道は繋がっている。屋上の縁に沿って繋がっている。
けれど一体どこへ。
これ以上どこに向かえと言うのだろうか。
まだ続く。
屋上を半周したかと思ったあたりでパールは方向を変え、中心に続いている。
そこで、パールは途切れている。
何もなかった。ただ、誰かが気まぐれにパールを置いただけなのかも知れない。
結局、足を痛めただけで終わっただけの一日だった。
そう思って、顔を上げると、そこにはパールが浮かんでいた。

パールが、空中に浮いていた。
そして、点々と天に向かって続いている。

それはまるで、蜘蛛の糸。
思わず手を伸ばした。
パールは掴むことができ、容易に手に入る。
パールを掴むとき、指先に何かが触れた。空中に向かって手を伸ばすと、何かがそこにある。
空中を触って、それを確認する。
どうやらその透明な何かは階段のようになっているらしい。
一段目に足をかけてみた。割れたりすることは無いようだ。
私はこの階段を登ることに決めた。

手で次の段を確認してから登っていく。
赤ん坊のように空中に這いつくばって空を登った。
一段、一段、供えるように、パールは置いてあった。

どんどんどんどん登っていって、どんどんどんどん街は小さくなる。
眼下に街が広がっていた。
人々の行き交う、空っぽの街。
市街地付近には草木はまばらで、ただ、がらんどうの建物が並んでいるだけだった。
それが、どこまでも続いている。
この世界は、空虚で無意味なのだとそう思った。
ただ、だだっ広いだけで、なんの意味もない。
私は私と同じ性質のこの街をもっと愛するべきだったのかもしれない。

不思議と風はなく、危なげなく階段を登っていくことが出来た。
もしかしたら、下から私が見えていて大騒ぎになっているかもしれない。都市伝説として長らく語り継がれるかも知れない。
なんちゃらマンとか名前をつけられて。
そんな事を思いながら、ひたすらひたすら階段を登っていく。
もう始まりのビルは豆粒のようだったし、街だけでなく、かなり遠い海まで見えている。
どこまで続くのだろう。
そう思って次の階段を触ろうとした時、壁のような物にぶつかった。
その壁に手を這わせると、私の頭上で直角に曲がっていた。
天に触れる。
それは、青い壁。天の終わり。地球の天井。
空は、一枚の板だったのだ。

私たちが今まで信じていた宇宙や地球はまやかしだったのか?
この天井はなんだ。なぜ空に天井がある。
そしてこの階段はなぜ天井まで繋がっているのだろうか。
遠慮なしに空を触る。
ただの木の板と同じ質感だった。ザラザラしていて、ささくれ立っている。
そして見つけた。取っ手を。
迷いなく取っ手を引くと、空が開いた。
白い光が隙間から漏れる。
ぽっかりと空に穴が空いた。白い穴が天に空いた。
白い穴に顔を突っ込む。激しい光が襲ってきた。あまりの眩しさに、なにも見えない。
ようやく視界がはっきりしてくると、そこは白い部屋だった。
ソファも白い、椅子も、机も白い。
壁も窓も無く、その向こうには青い空と海が広がっていた。
身体を乗り上げて、部屋に侵入する。
白い床に土の足跡がついた。靴を脱ぐ。
くるくると辺りを見渡す。
異様な程整っていて、美しい。
何故か、驚かなかった。何故か、ここにこの空間があるのが当然だと、そう思えた。
潮風が部屋を吹き抜ける。
あぁ、気持ちが良い。
何もかもどうでも良くなる。
空に天井が合ったことも、空の向こうにこんな部屋があることも、パールも、階段も、世界の事も、どうでも良くなる。
部屋の縁に腰をかける。塩水に足が触れる。
冷たくて気持ちが良い。
そうしているうちに、少しずつ頭がはっきりしてきた。先ほどまでの浮ついた気持ちが少しだけ落ち着く。
もしかしたら、ここはこの世では無いのかもしれない。この世とは思えない部屋や海の美しさがそれをありありと語っている。
私は救われたのだ。私だけが、この世から抜け出して、救われたのだ。

「君はもしかして……」
後ろから声をかけられた。
振り向くと、そこには金髪の少年がいた。
白く大きな長袖のワンピースを纏い、こちらを覗き込んでいた。
「あ、今そこから……」
私は出てきた辺りを指差した。
「え! 本当かい?」
彼はにこやかに笑った。本当に美しい笑顔で、この世のものとは思えなかった。
「やった! ついに成功したんだ」
彼はぴょんぴょん跳ね回り、狂喜乱舞している。
美しい、あまりにも美しい。私の貧相な頭では言語化できない美しさだった。
「嬉しいな、やっと地獄の話が聞ける」
彼はそう言った。確かにそう言った。地獄と言った。
「地獄……?」
私がそう言うと、彼は素っ頓狂な顔をした。
「君は下から来たのだろう? それならそこは地獄だろう。この世の下には地獄があるだけだよ」
さも当たり前かの様に彼は言う。
「さぁ、こっちに座って。何が食べたい? 何が飲みたい? なんでも僕に言ってくれ」
彼は優しく私の手を引いて、ソファに座らせた。
私が出てきた場所が目に入る。
そこには魔法陣の様なものが描かれていた。
あそこに出入り口があるのだろう。
しばらくそこを見ていたが、その床には何の切れ目も無いことが分かった。
まさかと思い、慌てて魔法陣を触る。
どこにも切れ目が無い。出入り口は消えてしまっていた。
「どうしたんだい? さあ、遠慮せず座って座って」
彼の手にはタオルが乗っていた。私の足を丁寧に彼は拭き始める。
「ゆっくりでいいんだよ。地獄の話をぜひ聞かせてくれ」
彼は私の目をみてゆっくりと、はっきりと、美しくそう言った。
私はその瞳を見て覚悟を決めた。
「先日、会社で……」

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