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【まったり骨董日記_vol.23】プロの眼力〜ほんの小さな違いを感じとる力

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骨董好きの我が夫、気は穏やかだけれど少々偏屈。
独自のルールとスタイルで営まれるその暮らしは、ときどきちょっとヘンテコです。お役に立つ情報はありませんが、くすっと笑ってもらえるような話をひとつ。
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紅葉シーズンももうすぐ本番。
そろそろ旅行に出かける機会も増えてきそうですね。写真が趣味の私にとっては、「旅=写真を撮りに行くもの」ですが、我が夫にとって写真は二の次、三の次。
「富士山を撮りに行きたい」だの「紅葉を撮りに行きたい」だのと私が言うと、「きれいですごい写真はプロがたくさん撮っているんだから、それを見れば十分では?」などと、にべもありません。

本来であれば、「いやいや、大切なのは自分の視点で自分らしい写真を撮ることなのですよ」と、夫を鼻で笑いたいところですが、そんな域までまったく及ばないのを痛切に感じているのは、むしろ私自身なので、ンガググッ!とおまんじゅうを喉に詰まらせたサザエさんのように反論を飲み込んで、屈辱に耐えています。

現在、師匠や他のカメラマンさんたちの写真を見たり、ノウハウ記事を読んだりしながら、まだまだ真似っこ真っ最中の私。
そもそも真似すらできなシチュエーションも多いうえに、上手く真似したつもりでも、細かく突き詰めて見ると肝心なところが抜けていたり。

写真なんて機材とその使い方を知れば、誰でも同じものが撮れるのでは?と思っていた昔の自分が恥ずかしい。。。
たとえ同じカメラ・レンズを持って、同じ場所に立ったとしても、構図の切り取り方やピントの位置、光や風のタイミングなどにより、一枚として完全に同じ写真になることはありません。

目の前で刻一刻と移り変わっていくこの世界の、ほんの小さな変化に気づき、捉える「眼力」。
私はそれを、写真を通じて養っている最中なのですね。

「眼力」といえば、我が夫が信条としているのは「骨董の真贋を見極める力は、世界の本質を見極める力に通じる」という言葉。
これは夫が骨董をはじめた頃、馴染みの古美術店さんから教えてもらったことなのだと言います。

人気が高いものであればあるほど、偽物も多い骨董・古美術品。
例えば古唐津盃の真贋ならば、陶土の色合いや肌触り、高台の特徴、絵付けの筆の勢いなどで見るのだそうですが、その違いは素人目では見えてこないような些細な点に現れるようです。

そして、多くのホンモノを見て触って、「眼力」がついてくれば、遠くからちらっと見ただけでも、それが本物なのか偽物なのかを見極められるようになるのだとか。むしろ念入りに細部を真似て作られた偽物は、全体像を見たときに気持ちよくすぅ〜っと入ってくるような印象がないのだとも聞きます。

もはやそれ、超能力では?と思うレベルですが、骨董・古美術であれ、写真であれ、一つの道をひたすら追求してきたプロフェッショナルの真骨頂とは、こういうことなのかもしれません。
また、この小さな違いを自然に感じとる「眼力」が、何か他のモノやヒトを見るときの力にもなっていくのだというわけです。

たしかに、私からすれば、やたら細かいことに気づく我が夫。
私が夫の留守中に、夫のモノを何か借りるとどれだけきっちり戻しておいても「この○○○、使ったでしょ」と言ってくるし、リビングや玄関に飾った置き物の位置をほんの数センチ動かしても「置き方を変えたの?」と聞いてくるし、冷蔵庫や戸棚に収納したペットボトルや容器入り商品はラベルがまっすぐ正面を向いて並んでいないと嫌がるし。

てっきり神経質すぎる性格に由来するものと思っていたら、これは骨董で培った「眼力」ゆえのことだったのでしょうか。。。

「世界の本質を知る人間になるべく、“骨董道”を極めるのが夢!」と胸を張りつつ、今夜も李朝の盃にお酒を注ぐ我が夫ですが、念のため「お酒を飲んで見えてくるのは幻の世界だよ」と教えておこうと思う私です。



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