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わからないことが面白い、という未来。

こんな記事を読んだ。

「はい、論破!」と相手を言い負かすことで一定の快感が得られてしまう人間の性質のようなものはあると思う。その誇張された姿がメディアで常に映し出されていればなおのこと、それがある種の遊びとして子どもたちのあいだに定着していくのもわかる。

自分の子ども時代を振り返っても、相手が言う事の逆を取って、正論を(といっても子どもの頭で理解できる程度の「正論」だったが)まくしたてて、勝ち誇ったように振る舞うということがあったと思う。今となっては苦々しい思い出だ。

「はい、論破!」の目的がディベートや議論の深化にあるのではなく、単に相手を打ち負かしてギャフンと言わせることの気持ちよさを助長させるだけなのだとすれば、その流れは悲しいし、危険だ。

ここには、議論をするために絶対に必要なものがないからだ。 それは、「この言葉のやりとりをすることで、自分のこれまでの思い込みや考えの組み立て方が変わる可能性があるのだ」、「優れた言葉のおかげで自分が成長しうるのだ」という、自分と相手と言葉に対する信頼だ。

https://toyokeizai.net/articles/-/673126?page=2

だから、記事中のこの言葉に感銘を受けた。
人間の知性が産んだいちばんの傑作は、「話し合うこと」「議論すること」だと思っている。そして、議論することの大前提にあるのは、相手への信頼と、自分自身が発する言葉への信頼、そして議論することで産まれる新しい探求の可能性へのワクワクだ。

私たちが「次世代の教科書」を通して実現したいのも、そのワクワクを共有できる価値観と思考力を作ることなのだ。

変わっていく「当たり前」に、探究心や好奇心を持って向き合うこと。
自分の中の「当たり前」が変わる瞬間を大切にできること。
そして、そのために自分自身に向けて問い続けること。

これは相応の努力がいる試みだし、目の前の「論破」の快感にはなかなか勝てないのかもしれない。だからこそ私たちは、「問う」ことの面白さと価値を発信し続けたい。読書を通じて、簡単に正解が出せないこともあると知ってもらいたいのだ。そして、そのことを面白がってほしい。

そしてこれは、私たち自身への戒めでもある。
分かったつもりになっていないか?
相手の立場や思いを尊重せず、正論で打ち負かそうとしていないか?
正解のない問いに向き合い、誰かと議論してより良い答えを探していくということにワクワクできるか?
それらへ真摯に向き合うことを、次世代に示し続けるために。

いつの日か、「はい、論破!」ではなく「もっとその話聞かせて!」が流行語になるような未来になることを夢見ている。

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