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映画#88『マトリックス』

『マトリックス』(”The Matrix”)

監督:ウォシャウスキー兄弟
出演:キアヌ・リーブス、ローレンス・フィッシュバーン、キャリー=アン・モス、ヒューゴ・ウィーヴィング、ジョー・パントリアーノ、グロリア・フォスター、他
製作会社:ヴィレッジ・ロードショー・ピクチャーズ、シルバー・ピクチャーズ
配給会社:ワーナー・ブラザーズ
公開:1999年3月31日(米国)9月11日(日本)
上映時間:136分
製作国:アメリカ合衆国
Wikipediaより引用

【あらすじ】
凄腕ハッカーのネオは、最近”起きてもまだ夢を見ているような感覚”に悩まされていた。そんなある日、自宅のコンピュータ画面に、不思議なメッセージが届く…。正体不明の美女トリニティーに導かれて、ネオはモーフィアスという男と出会う。そこで見せられた世界の真実とは。やがて、人類の命運をかけた壮絶な戦いが始まる。
Filmarksより抜粋

 真実は時として非常に残酷である。

この『マトリックス』では、自分が今まで暮らしていた世界は虚構であり、その世界に住む人々はそれに気づかずに生きていた、という事実を突きつけられた主人公、トーマス・アンダーソン/ネオを描いた作品である(まぁSFアクション映画として確固たる地位を築いた作品であるので、知らない人はほぼいないとは思うが)。


 世界は虚構であると気づいた主人公ら「レジスタンス」、そんな世界……「マトリックス」を作り上げたAIとの戦いを描いた今作。

AIは「エージェント」としてマトリックスに顕現し部外者を排除せんと立ち塞がるのだが……至近距離で発砲された銃の弾を全部避けるなど、その強さは最早デタラメの領域である。

そんな化け物に勝てるかどうかはさておいて、それ故にCGを多く用いられたシーンが多々存在する。正直CGのクオリティに関しては、当然今と比べて陳腐に見えるが……戦闘シーンの疾走感に関してはピカイチだ。

特に電車のホームでネオとエージェント・スミスが戦うシーンは、肉弾戦・銃撃戦・その全てが一級品。またビルの屋上で戦うシーンも良い……かの有名な「マトリックス回避」が生まれたのもこのシーン。イナバウアー。


 さて、今作のテーマとして欠かせないのは冒頭でも述べた「真実の残酷さ」だ。

序盤、レジスタンスの指導者の1人であるモーフィアスはネオに2つのカプセルを差し出す。

1つが青……全てを忘れ去り、自宅のベッドで目覚めいつも通りの生活を送ることができる。
もう1つが赤……過酷な戦いに身を投じる代わりに、世界に隠された真実を知ることができる。

読者諸君はどちらを選ぶだろうか……多くの人々は赤を選んでしまうだろう。その原因とは、古来より我々人類に秘められし「知識欲」だ。

目の前に吊られた人参を必死に追いかける豚の如し、人はどうしても「知りたい」という欲求に逆らえない。赤のカプセルを飲み込み、世界の真実を知り、やがて終わりのない戦いに身を投じ……

ここで人は初めて、己の選択を悔い始める。現実の世界は既に荒廃しており、衣食住も整ってない。少なくともマトリックスのような、人並の生活はできないだろう。

だが皮肉なことに、虚構の世界……マトリックスではそれが可能なのだ。故に一部の人間は「全てを忘れ去り、普段通りの生活を嗜む」こと、つまり青のカプセルを選択することを望むようになる。

事実、劇中ではレジスタンスの1人が上記の理由で反旗を翻し、仲間を殺害している。だがこの反逆も「よくよく考えれば仕方ないことなのでは?」と、なんだか納得できてしまうのもまたむず痒い。

そりゃー誰だって、永遠のアンハッピーよりも永遠のハッピーを選択するだろう。そうでない決断をするのは、モーフィアスやトリニティーやネオのような芯のある人物のみだ。

ここが『マトリックス』のミソなのだと私は思う。真実による苦痛、無知による幸せ、そこに憚る知識欲という名の罠(言わば「マトリックスのジレンマ」と言った所か)。

今作のラストで「救世主」として覚醒を遂げたネオ。今後のシリーズでも、彼は過酷な戦いを強いられることとなる。

彼は救世主になるべくしてなったのか?マトリックスで平穏に暮らす、という選択も彼にはあったのではないか?

仮想空間でのスピード感のあるアクションに目を惹かれがちではあるが、こういう心理的な側面を読み取るのも『マトリックス』、ひいてはシリーズ全体を楽しむ為に一つの方法なのではないだろうか。

それではまた、次の映画にて。

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