えほん・わが町の民家 住吉・住之江[3]【池田屋本舗】
今から35年前の1987(昭和62)年に上方市民情報社が発行した、島田アツヒト著『えほん・わが町の民家 住吉・住之江』に載っている民家のある場所の、昭和時代と令和となった今を見比べてみようと思いました。
熊野街道周辺の16戸と、紀州街道周辺の10戸の合計26戸の民家が紹介されていますが、先ずは熊野街道周辺の民家から順に見比べていくことにしました。
第1回目は、住吉区帝塚山中2丁目4番の「蔵のある家」(熊野街道周辺の民家案内図の12)を紹介しました⤴
第2回目は、住吉区住吉1丁目14-2の「縁起物のある家」(熊野街道周辺の民家案内図の14)を紹介しましたが⤴
今日第3回目は、住吉区住吉1-9-22の「池田屋本舗」を紹介します。
1984(昭和59)年11月23日に描かれました。
1987(昭和62)年5月にブロック塀から板塀に変わってから撮った写真だそうですが、高燈籠は見当たりません😲
現在では、正面に高燈籠も看板もあります!!
建物は文化庁の「登録有形文化財」と、「住吉大社周辺地区 まちなみ推奨建物」にもなっています。さらに、住吉区の都市景観資源に選定されています。
住吉街道と熊野街道の交差点、住吉大社の東参道四つ辻角に建つ店舗兼住宅です。現在の建物は1892(明治25)年頃に建築されたものというから、今年で130年目というからスゴイです!!
しかし、創業は室町時代の1531(享禄4)年というからもっとスゴイです~何と創業491年\(◎o◎)/!!
でも、国指定文化財等データベースには「元禄年間に酒造業をはじめ」と記してあります。元禄年間というと、江戸時代の1688~1704年となるのですが🤔
いずれにしましても、建屋の保存状態は良く、屋根に設置された高灯籠、白壁の虫篭窓等々外観だけでも歴史を感じます。
この看板には、「住の江の 岸による波 よるさへや 夢の通い路 人目よくらむ」と書かれています。この書は榊莫山に師事した墨象家・荻野丹雪の手によるものです。
この和歌は、『古今和歌集』の恋・559に収録された藤原敏行の歌で、藤原定家が京都・小倉山の山荘で選んだとされる『小倉百人一首』の18番にも収録されています。
こちらにこの和歌の詳細が記されていますが⤴現代語訳にすると次の通りです。『住之江の岸に寄せる波の「寄る」という言葉ではないけれど、夜でさえ、夢の中で私のもとへ通う道でさえ、どうしてあなたはこんなに人目を避けて出てきてくれないのでしょうか。』
こちらは、魔除けや厄除として屋根の上に飾られる「鍾馗」です。向かいの家の鬼瓦をにらみ返し、邪気を払います。
こちらの「高灯籠」は、住吉公園の西側に位置する「住吉高燈籠」を模したものです。住吉高燈籠の詳細はこちらをご覧下さい▷「住吉界隈いま・むかし[43]【明治36年の高燈籠】」
ジェーン台風後に再建された高灯籠には風情がなくなった、と店主・池田幹隆さんが垂木や風鐸、石垣まで細部にこだわり、昔の姿を屋根の上に蘇らせたそうです。
因に、住吉高燈籠を模したものは住吉区に3ヶ所、住之江区に2ヶ所あります⤴
正面左にはめ込まれたこの大きな樽は、江戸時代の1688~1704年(元禄年間)のもので、重さ1,500kg(400貫)もあるそうです\(◎o◎)/!
南側には、池田屋本舗の名物「住乃江味噌」の由来が記してあります。
酒造業の次に始めたのが味噌醸造で、住乃江味噌の起源は明治時代(1868~1912年)の初期だとか。歯が悪くて食が細くなった当代の母に滋養をつけてもらおうと、池田屋伝来の元味噌に砂糖、金ゴマを加えて焚き上げた住乃江味噌は明治、大正、昭和天皇にも献上されたほどです😋
他にもこの建物の見所はこちらをご覧下さい⤴
こちらは住吉さん(住吉大社)側から見た四つ辻ですが、南角の「ミールフォトカメラ店」は既に廃業(私もよくお世話になりました)😢
その向かいの「ハット屋パン」もパンは作らず夏場だけソフトクリームを販売するようになりましたがこちらも廃業に😢
先週は久々に池田屋本舗の名物「住乃江味噌」をはじめ幾つか買って食べてめっちゃくちゃ美味しかったので、明日は美味しい店として池田屋本舗を紹介します!!
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