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RECETTE DE MA MERE 母のレシピ

昨年、フォションが破産したというニュースを知って、まず頭に浮かんだのは、夕方買ってきていたパン・ド・ミーを紙袋から出して、備え付けのビニール袋に丁寧に詰め替えていた日本の母の昔の笑顔。

ふつうの専業主婦が、習い事に通い、パンの焼き立ての時間に合わせてデパートに出かけられた昭和という時代は、携帯もWifiもない不便さはあったけれど、情報や交流が限られていた分、義務や権利は人それぞれ家庭ごとだった気がする。

そういえば、私は20歳を過ぎるまで、料理らしい料理をしたことなんてない

通学のお弁当は、母が全部作ってくれていた。
お料理が格別得意でも好きでもなかった母だけれど、キッチンは自分で選んだタイルにしたり、キレイに磨き上げていて、娘といえども気軽に触れないスペースだった。

ふつうに使わせてもらえるようになっても、少しでも水滴がついていたり、物の位置が変わっていると厳しく言われるし、母の思う通りの手順や速度を強いられるので、一緒に何か作ったのは(言われる通りにほぼ問題なくできる)もっぱらマドレーヌやケーキといったお菓子作り。

だから、母のレシピで受け継いでいるお料理はほとんどない。赤ワインたっぷりのハヤシライスと、牛切り落としの佃煮と、ほうれん草の卵焼き、ぐらい。習った…というよりは、傍で、目と舌で覚えた。

Tamago yaki ( omelette japonaise ) aux épinards :

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母がとことんこだわったのは、紅茶とパン

そして、食の思い出は、ゆっくり淹れてくれるリプトンのグリーン缶のミルクティーとトーストとバターと苺ジャムの朝ごはん。

箱入り主婦と表現したい母は、いろんな意味で神戸の“お嬢さん”がそのまま歳を重ねているようなひとで、私はそれが自慢だった一方で、一途な強引さが重かった。

父と一緒に仕事をするようになって(それは母が忌み嫌っていたし)、そして、その父を急に亡くして、たぶん同時に、私は“母という存在”をも失くした。元気でいてくれているのが幸いだけれど…

焼きたてパンを買う習慣は、そういえばデパ地下でのフォションから…

一時帰国で実家に戻れていた頃は、もうわざわざ遠くのデパートまでは行けなくなった高齢の母のためにと、フォションでパン・ド・ミーを買い足しては、1枚ずつラップして冷凍庫に入れていたけれど、数年前からは、共にテーブルも囲めないし、長居も許されない。出張した友人経由で親族に託しても、食べものは(異国のもので何かあってはいけないからと)一切受け取って貰えなくなっているし、最後に一緒にフォションのパン・ド・ミーとぶ厚い輪切り丸ごとのマーマレードを食べたのはもう5年も前になる。

既に母の記憶が曖昧になっていて数年経っていた頃のことだから、もう覚えて貰えてもいないかも。

それでも、私も息子も、母との食卓と笑顔は忘れていない。眼に問題を抱えていて、フランスに来ることはできないままのおばあちゃんと孫の大切な時間だった。 “黄色いベストの人たち”は、彼らにとって正論かもしれないけれど、彼らのせいで誰かの人生を壊していること、そして未来を台無しにしていることに気づいていない。

土曜日ごとの騒ぎのせいで、どれだけの人たちの日常が台無しになってきたか、ふつうにできるはずのことがそうでなくなったのか、目を向けようとはしない。自分(たち)が1番辛いけれど頑張っていると被害者意識の正義を振りかざして…

パリを壊したって彼らの環境が発展するわけじゃない。

誰かの足を引っ張ることが、あなたを上に引っ張り上げる結果にはならない。
誰かのことを嘘で貶めたり、評判や信頼をはぎとれたとしても、あなたがその人のキャリアや可能性を得られるわけじゃない。


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