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春の話

眠れなくなったのはいつかの3月半ばだった。

耳元でずっと囁かれる「どうして生まれてきたんだ」とか「お前なんか死んでしまえ」そんな類の言葉と、鉛のような全身の気怠さが毎晩私を襲っていた。運良く眠ったとしても嫌な夢に怯えた自分の叫び声で目覚める、そもそも眠れずに泣く、そんな日々を過ごしていた。

桜が咲き始めていた。
春に生まれた人が好きだった。

病院で処方された薬は頭が悪くなりそうですぐに飲むのをやめた。脳みその回路が遮断されて、考えが浅いところで止まってしまうのは怖かった。睡眠薬と睡眠導入剤の効き目が抜群だったせいで、今度は一度眠ると起き上がれなくなり、ほとんど仕事に行けなくなった。

桜が散りかけていた。
春に生まれた人はもうどこにもいない。

その少し前、わがままを言った。

これ以上あなたと一緒にいられないなら意味がない
と言って、家の目の前でタクシーから降りた。ああもう大丈夫だと思った。

私のことなんて面倒臭がって嫌いになって欲しかった。眠れない、頭が回らない、それを悟られたくなくて会うのを避けた。私の心はイカれてゆくのに、きっと心配をかけてしまうと思った。遠い昔、別の恋人と同じ理由で別れたことがある。10年以上経っても、私は自分の気持ちを飼い慣らせずに、同じ悲しみや同じ別れを繰り返している。

手放しで愛してくれる人の存在を信じられず、いつも誰かの優しさを踏みにじって一人でいることを選んでしまう、そんな夜を過ごしている。

フィクションだといい話。

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