刑罰への非難

もし機械論を、あるいは運命論を、ある事物と心象が起きるのには原因があるとする考えを否定するのであれば刑罰は難しくなる。
このような、すべてが事前に決まっているとする理論を採用することで刑罰は難しくなるのは……何人の罪も予定されたことであるとするなら何人も罰することができないと考えられるのはおかしくない。だが、何事にも決まりきった原因はなく常に偶然性があり、その偶然性の余裕の範囲で自由があるとするなら、たとえば、物を盗むつもりはなかったが急に手が動いてしまったのだ!なんて言い訳も、その偶然を否定できないから成立してしまう。これはこれで難しい。
これは極端な例だがそれでも偶然であって、その偶然性の度合いはすべて平等である。もひ偶然性に度合いがあるなら、たとえば犯罪歴のある者が急に物を盗むことと名医が手術に失敗して患者を死なせてしまうことでは話が違うと言うなら、それは「犯罪歴」「名医」というものに妥当性を……原因を求めているから、機械論を援用しているからだ。
機械論を採用しようと偶然性を主張しても罪は成立しない。これらを混ぜて「原因はあるし、偶然性もある」と言うのもできない。どこまでが原因か、どれくらい偶然性があるか、それを決められないからだ。
だが私は刑罰を非難しても否定はしない。機械論的には、罪があることでそれを避けようとしてみんなが他人を傷つけないようになるわけだから、たしかに公共の利益になっている。間違いなく法律と刑罰はあるべきだ。ただ、たまたま刑に処されない運命にあっただけの人が、たまたま刑に処される運命にあった人を批判して、無知を晒したり、醜態を晒す様は見ていられない。人間としての質が低い者たちだ。
ちなみに、日常的に機械論と偶然性を混ぜることはむしろ肯定されるべきだと思う。運命は存在するが、何が何の原因になっているかなんて人間には特定のしようがない。人間にとって運命はすべて後付けにしかならないので、自分には自由があると勘違いして、少しでも多く利益を求めるべきだ。

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