面白いって二種類あるよ!/ランジャタイから芸術哲学
ネタが面白い、トークが面白い。これは一般的な意味での「面白い」だ。
僕が大好きなランジャタイさんはネタもトークも面白い!ぶっ飛んだネタにぶっ飛んだトーク!
そして、ぶっ飛んだネタやトークを「してること」も面白い。ネタやトークそれ自体ではなく、それをやってることが面白い。
だってそうでしょ。人生一度きりなのに、何十年もかけて、あんなことしてるんだよ。しかもそれをM-1なんて大舞台でやったんだよ。最下位で爆笑してるんだよ。面白すぎるでしょ。
これが二種類目の面白さ、「してること」の面白さ、生き様の面白さ、一歩引いて俯瞰したときの面白さ。
ランジャタイや虹の黄昏やモダンタイムス・・・人生ボロボロな地下芸人の方々にはこういう面白さがあっていい。二重の面白さで二倍面白い!
逆に、見取り図だとかニューヨークには「後がある」から安心しちゃって面白くない。あんなやつらネタとトークが面白いだけだよ。つまり普通に面白いんだよ、良くも悪くも!
「面白い」を「美しい」に換えたら芸術哲学っぽくなりそうだな。美しいもの=芸術作品を作ることは人生の中で行われるけれども、人生自体を美しくしたらどうなんだろう。作り手=芸術家、と、作られるもの=芸術品
が一致しちゃうのかな。
でも作り手って芸術家だけなのかな?絵具を作る人、座って快適に作業できる椅子を作る人がいなかったらその作品はできないんじゃないかな?
美しく生きたいけど美しいって誰にとってなんだろうね。でも、僕以外の誰かに美しさを押し付けられたくないし、自分で決めるしかないな。
人生を作品にするなら死んだときに完成するのかな?でも見る人がいなきゃ芸術品って存在しないのと同じだよね。僕が生きてるうちは僕が僕を見ればいいけど死んだらどうしよう?
美しい人ってどんな人なんだろうね。とりあえず、汚いことをする人は美しくないから、美しいことをする人が美しい人なんだろうね。じゃあなにもしてない人間がなにかしたとして、それを美しいかどうか決められるのかな。なにもしてないなら醜くはないけど美しくもないし、美しくない人が美しさを決められるのかな。でも美しいことを決められなきゃ美しい人にはなれないよね。
人間は土器より土偶を先に作ったらしいし、生まれつき美しさを知ってると思うんだよね。でも、それを完全に把握することはできるのかな?現代社会が美しい生き方と相いれなかったらどうしようかな?自分にとっての美しさが他人にとっての醜さだったらどうしようかな?
まあ、しょうがないね。美しいって気持ちが個人的なものなら、それは評価なんて公共性のあるものじゃなくて、僕はこれが美しいと思う=僕はこれが好き、なんて愛の話でしかないね。
愛の話になったらもうダメだよ。好きになることに罪はないけど、好きな気持ちがあればどんな罪も犯せちゃう。それでいて牢獄みたいに僕らを閉じ込めて気まぐれに餌をやったり処刑したりするんだ。河合譲治はナオミちゃんに勝てなかったし、ナオミちゃんもナオミちゃんに勝てなかったね。
でもナオミちゃんがナオミちゃんに負けるってことは、ナオミちゃんはナオミちゃんに勝ったということでもあるし、つまり、自分を愛するってことだね。そうすれば半分は負けるけど半分は勝てる。
そんで、さっきのを逆に言えば、好きなものは美しいものなんだよ。自分を好いていれば自分も美しくなるんじゃない?僕は僕のこと嫌いだし好きだよ。
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