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【短編・詩集】ブックゼパム・プロト


 2歳の犬を飼っている。人間に換算すると24歳らしいのだけど、敬語を使うべきだと思う? でもあっちは僕にタメ口で吠えてくるから、やっぱり敬語かな。
 それはともかく、これは4月から書いた短編と詩の集まり?です。地元の60年くらいやってる文芸誌に載るくらいの文章力はありますが、いろいろあってボツにしたものたちです。かわいそうに。
 短編にしても詩にしても上に行くほど出来がいいので上から読んでください。あと、敬語を使うべきか教えてください。以上!



 

 午前13時過ぎの蝋 


 水泳が好きだ。グッと力を込めたときの脳からの指令は、手先と足先の神経まで一瞬でたどり着き、全身の筋肉を叩き起こす。その筋肉たちは、最初はそれぞれバラバラなときに、バラバラな動き方をする、うごめくような筋肉だ。しかし、肩を回したり、膝を曲げたりしているうちに、いつものやり方を思い出す。無数の筋肉たちは隣の筋肉と手を取り合って結合するのだ。うごめく筋肉は、いまや十分程度で歴戦の兵隊のように統一を果たす。

「キミにストレッチの意味なんかないよ。いつも言っているだろう」

 プールサイドのタイルは最初こそ冷たいが、飛び込み台までの一歩一歩に真心こめれば、次第に暖まるのだ。もっともそれは、僕の本意ではないが、水泳とはそういうものなのだ。水着を着て、ストレッチをして、飛び込み台まで歩く。

「キミの命日だ。なにか違うことをしたらどうだ?」

 黄色い飛び込み台は緩やかにカーブしていてよく見えなかったが、そこには二つの白い跡が横に並んでいた。飛び込み台にたどり着くと、僕はその左右の跡を右足と左足で踏んだ。かがみ、プールの水面を覗くと、真っ白な僕が黒い影を作っていた。

「キミの身体は蝋でできているんだ。あと……そうだな、2時間くらいでどろどろに溶けきってしまうよ。午前中の命だ」

 その女はたぶんプールサイドのガラス張りになっている方に突っ立って、暇そうにこちらを見ているのだろう。白衣を着て、丸い眼鏡をかけている。プールのTPOにそぐわないと、ずっといらだっていた。それになにより、今日こそはこの人が命などと言うことが許せなくて、折り曲げた身体を起こした。

 右を向くと、やはり白衣の女はそこにいた。いつもの格好で。ただ、その眼には、朝焼けに照らされたような熱がある。朝焼けなど一度しか目にしたことがないが、たしかに。少なくとも熱を帯びており、身を守りたくなったが、僕には青い競技用パンツしかなかった。それと、全身の筋肉。統一体は怒りと恐れ、悲しみに震え、再びうごめきはじめた。

「どうして僕の身体を蝋で作ったんですか? あなたなら、あなたのように、肉で作ることもできた。こんな身体じゃなくて……」
「だからストレッチなんて意味がないといったじゃないか。キミは本当にバカだな」
「あなたは、バカを作ることに関しては天才ですね。紙製の彼女、バルーンの親友、二人とも死んでしまいました」
「死にはしないよ、生きていないものが。前者に関しては自殺じゃなかったかな? いまもほら、水面に漂っているよ。ぶよぶよと、少し暗い色になってしまったが、まあ生前も暗かったしね。あ、性格がね?」

 白衣の女の後ろにはまんまるの太陽が見えてしまった。本体は黄色っぽく、ガラスから差し込む光はオレンジっぽくて、水面をきらきらと照らしていた。波一つない水面は黙ってそれを受け止め、語ることなく僕の傍にいてくれている。太陽はとても綺麗で、これから僕を殺す。

「僕はあと何時間、生きられるんですか?」
 溶け続ける目で見る白衣の女はぼんやりとしていた。しかし耳は、たしかにその時刻をとらえてしまった。
「2時間だよ。さっきそう言っただろう。あ……1時間と50分だね」
 溶けた眼球の表面が涙のように頬を伝うのが分かる。やっと、僕は泣くことができた。
「どうして僕を蝋で作ったんですか」
「巨人の誕生日ケーキに刺した蝋燭がさあ、余っちゃってさあ、もったいないだろう? SDGsの時代だよ? 再利用したんだよ」
「でも、心まで入れる必要はなかったでしょう」
「分からない。僕もなぜキミに心があるのか、分からなかった。だから興味深いんだ。死に際に、なにかデータを取らせてくれ」
「好きにすればいいですよ。もう。でも、僕は、泳ぐだけです」

 再び身体を折り曲げた。水面はよく見えないが、いつも泳いだ25メートルプールだ。戸惑うことはない。見たことはないが、きっと豹のように跳ね、水中へと潜りこんだ。僕には目と、耳しかない。それだけあれば意思疎通はできるからと。でもプールというものは塩素で消毒されているのだろう。だから僕は塩素のにおいを嗅ぐ。感じない水の抵抗と圧を、のっぺりとした蝋の全身で感じるのだ。

 まずは平泳ぎ。脚を上向きに、腕を内側に折り曲げ、一気に解き放つ。その推力で22メートルほどの壁へ突進する。これを繰り返す。そうしている間、脳はパターンの再現に全力を尽くすから、筋肉だけでなく、真に全身が一つになる。

 水中にいる間、僕は人間の出来損ないではなく、水泳の初心者でいられる。なにも見えなくていいし、なにも聴こえなくていい。ただ身体を動かすだけ。だが、必要のない呼吸のためにときどき顔を上げると、水中の静寂はリセットされてしまうのだ。プールの壁に吹き付ける風の音、建物のどこかがきしむ音、そして、まぶた越しでも分かる、あの太陽の輝き。

 そのとき、僕は一瞬考えてしまうのだ。本当に水泳が好きなのか? 僕は死にたくない。ずっと泳いでいたいから。そう思っていたが、本当は、生きるために泳いでいるのかもしれない。この水の中にいれば熱は軽減され、この蝋の身体は延命できるのではないか。その可能性が頭から離れないのだが、その可能性に気づいてから泳ぎ始めたのか、泳ぎ始めてから気づいたのか、分からないし、分かろうとするだけの時間も許されていないのだろう。

 平泳ぎが終わればクロールで疾走し、背泳ぎで休憩し、バタフライで遊ぶ。その間も僕は少しずつ溶けていく。綺麗だった水面は白く濁りはじめ、僕の心に罪悪感がしみ込んできた。太陽の輝きはどれだけやめてくれと願っても増す一方で、指先や足先から分かりやすく溶けていくと、いつまで泳いでいられるのか不安になった。

 これが走馬灯というやつなのか。プールに飛び込んで、いまも左の方に漂っているだろう彼女のこと、白衣の女を止めようとして撃たれた親友のことを思い出す。みんないい人たちだった。僕も、すぐにそっちに行く。天国にプールはあるのだろうか? 釜茹で地獄なら、泳げるには泳げるだろうが、やっぱりこの身体だからな。

 1セット目が終わるとプールサイドに腰掛けて休憩する。より、溶けていくのは分かっている。でも水泳には休憩が必要なのだ。それが水泳というものだ。体内時計で十分休み、また平泳ぎから始める。いつもより早いペースで1セットを終わらせている気がする。ずいぶんと慣れたものだ。そう思った。焦っているのかと、不安になることはない。

 もはや心は決した。僕は死ぬまで泳ぎ続ける。泳ぎたいからだ。なんで泳ぎたいかなんてどうでもいい。泳ぎたい僕の心、まだ泳げる僕の身体、そして独り占めできるプールがあるのだ。それだけでいい。だって僕は、泳ぎたいだけだから。

 5セット目を終えた休憩のとき、僕の身体はぐらぐらと揺れた。ほとんど溶けた耳の中にあの女の声がわずかに届いた。「見ろ」と。だが、目の方はもう溶け切っている。そう答えると、女は一瞬黙ってから、僕に叫んだ。

「今、13時だ。午後だよ、午後の1時だよ!」

 よく聞こえない。午前13時? よく分からないから、面倒だし、踏み込み台に立って、身体を折り曲げた。そして、水中へ潜りこむ。

 僕はその後、泳ぎ続けた。いつまでかは分からないが、分かる必要なんてない。僕は泳ぐ。泳ぎたいから泳ぐ。そして泳いだ。それだけのこと。

 パピヨン・ラナウェイ!

 
 わたしはでっかい蛾に追いかけられてるんです! 蛾は、身体だけで三メートルくらいあって、翅はもう巨人のうちわみたいなもので、それはもうでかくて、でかかったんです。お願いします。ここに匿ってください。いや、撃ち殺してください! あんな気持ち悪い蛾はさっさと殺してください! 早く家に帰りたいんです。もう、身体中に張り付いた鱗粉が気持ち悪くて気持ち悪くて気が狂いそうです。お願いします。ほら、あの蛾が私以外を追いかけないとも限りませんし、ねえ、お願いしますよ。危ないんです。一般人を守るのが仕事じゃ、義務じゃないんですか!? 税金を払ってるんですよ!? ねえ、早く、その銃はなんのためにあるんですか! ボケっと突っ立ってないで、早く、ああ、羽音が聞こえてきます。ぶんぶんぶんぶん鳴ってます。パンパンパンパン撃ち殺してくださいよ。あああああ、早く早く、撃ち殺してよ! ねえ! あなたがやらないなら、くださいよ。それ。わたしが……わたしがやりますから……!

 うーん、困った。目の前の若い女を取り押さえながらそう思った。四十年間警官として勤めていて、こいつに困惑することはない。ただの薬中だろう。見えるもののサイズのおかしさとか、視界にいつも虫が這っているとか、そういう特徴をまとめた薬中ビンゴみたいなのが俺にはあって、こいつはすでに二つ開けている。あとは尿検査でビンゴだが、一旦落ち着かせないといけない。

「えー、蛾に追いかけられてるんですよね」

「さっきからそう言ってるでしょ!」

「なんかね、娘から聞いた話なんだけど、フランス語だとちょうちょも蛾もパピヨンって呼ぶらしいですよ」

「パと、ピと、ヨと、ンですか?」

「え? うん」

 女はしわだらけの白いティーシャツの胸元をぎゅっと掴み、俯いてぼそぼそ言い始めた。

「みんな、かわいいことばですね」

「あー、そうだね」

「パってかわいいですよね。でもパパはかわいくない」

「あー、そういうこと言わんでくれよ。ハハ」

「いや、母じゃなくて」

「いや、そうじゃなくて……」

 女は小首をかしげ、腕を組み、夜空を見上げる。俺は本当はダメなタバコを深夜だから吸う。署内に白い煙が漂って、それは指名手配犯たちの顔を隠すが、そんなのは気にしない。

「ナス、トマト、ピーマン、トウガラシ、それにオクラキュウリカボチャイチゴレタスキャベツニンジン。かわいいことば。わたしの唇から震えていなければ」

「お肉も食べたら?」

「おにくはかわいいことば。でもとりにくも、ぶたにくも、ぎゅうにくも、かわいいことばじゃない」

「パンパンもかわいくないよね?」

「パンはかわいい……・パンパンはかわいくない。じゃあ、一発で殺してください」

 めんどくさいなあ。俺はパイプ椅子から立ち上がって、外に出た。住宅街は寝静まっていて、たしかに、暖色の街灯に虫がわらわら飛びついている。

「蛾はどこに?」

「あそこ」

 その、白身魚の小骨みたいな人差し指が刺したのは、まさにこの街灯だった。俺はタバコを持っていないシミだらけの左手の小指、薬指、中指を折って、人差し指と親指を立てる。ピストルの構えだ。

「パン!」

 乾いた音と、白い煙。虫たちは一匹も死ぬことなく、街灯はぼんやりと光りを放ち続けている。想像上の蛾は、想像上の銃によって死んだ。

「ほら、パピヨンは死んだよ」

「うーん……でも、やっぱり殺さなくてもよかったんじゃないんですか?」

「ええ?」

「かわいいですもん」

 女は、今度は、責めるような眼で俺を見つめてきた。街灯の下に近づいて、蛾の死骸を撫でながら。そして踏みつぶすような一歩一歩で俺に近づいてくると、どんどん大きくなっていくような迫力があった。

「どうして殺したんですか」

「殺せって言ったじゃんか」

「殺せって言われたら、誰でも殺すんですか?」

 二本目のタバコに火をつける。外で吸うと虫が寄ってきて嫌なんだが。

「ああ、殺すよ」

「じゃあ、私も殺してくださいよ」

「はいはい」

 俺は女を撃った。倒れこんだ女の腹の銃創から流れた血が、道路のアスファルトのでこぼこに浮いたりへこんだりしながら広がって、俺の黒い靴を赤黒い靴にしていった。吸いきったタバコをそこへ落とすと、火はちゃんと消えてしまった。あれ?

 あー、そうだった。これマリファナだったわ。どおりで死骸が見えたわけだ。自嘲しながら三本目のマリファナに火をつけると、街灯の場所取り競争に負けたやつらが集まってきて、俺はそいつらも撃った。が、一匹とんでもなく大きいのがいて、そいつはしぶとかった。身体だけで三メートルくらいあったと思う。翅を広げるとどれくらいだ? 頭が回らん。

 とりあえず、その場から逃げることにした。返り血は鱗粉に、靴の粘ついた音は羽音にかき消されて、まったく気にならなくなった。すっかり振り切って四本目? のマリファナに火をつけても、昇る太陽がにっこりと虫たちを惹きつけるもんだから、俺は独りぼっちだった。

 ああ、娘に会いたい。でももう会えないんだよな。あいつは天国に逃げてしまって、追いかける術がない。地獄には蜘蛛の糸があるというが、マリファナの火で協力してもらえるかな?

 とりあえず、まだ追いかけてきている蛾から逃げることにした。でも蛾というとイメージが悪いし、やっぱりパピヨンでいこう。娘の教えてくれたことだしな。俺はパピヨンから逃げ続けた。

 季節と雑草の死

 
 春は死にたくてたまらない。あらゆる子どもと、あらゆる大人が、あらゆることを始めようとしている。桜は咲き誇り、社会の歯車が回り始める。いつか散る桜と、ボロボロと欠けていく歯車が。始まりがあれば終わりがあって、春などというものは一年の余命宣告に等しいのだ。

 「私、観葉植物を育て始めたんだ~」

 あっそ、と思いつつ「はえー、おしゃれだねえ」と返す。

 「でしょ? それに植物があるのなんか……葉っぱから新鮮な空気が出てくるというか?部屋に緑があって気分がいいというか?ね?」
 「そうねぇ」

 コンビニの制服を脱ぐとき、灰色の冷たいロッカーが見える。植物とは正反対の物体だ。会話がかったるいという気もあり、てきぱきと制服を畳んで仕舞い、夕飯のことを考える。食べるものなんてなんでもいいけど、それくらいしか考えることがなかった。

 「おつかれさまでしたー」

 ありふれたマンションに帰ったとき、入口の傍に、ありふれた雑草が、いつもどおりに目に入った。気分のいい緑のことを思い出した。私は自分の憂鬱を何とかしたいとは思っている。が、観葉植物を育てるどころか自分の生活すらまともに回していけない…………

 だから、こうすることにした。この雑草を、育てていると言い張ることに。

 ***

 夏は死にたくてたまらない。とくに雲ひとつない快晴だと、あの無機質な青色に世界が上から覆われているようで不気味だ。暑いのも普通に嫌だし。あと、無邪気に遊びまわる子ども、資本主義にもたされた欲望を、まるで自分の内から湧いたのだと思って満たそうとする大人たち。家の中でぐったりする。

 でも、あの雑草を育てていると言い張るために、ペットボトルの水をかけに外へ出る必要があった。そのたびに気だるさと、セロトニンの放出を感じる。そのうち慣れるだろうと曖昧に期待して、またベッドに戻った。スマホから、便宜上の友達から「最近どう?」とラインが来ていた。なにもしていないと不気味に思われるし、「植物を育ててる」と言って、「え!?そんな趣味あったの!?」と驚かれて、いたずらごころが湧いた。

 「そう、雑草に水をかけてるの」

 ***

 秋は死にたくてたまらない。読書の秋、スポーツの秋、芸術の秋……いや、いつでも好きなときにやらせてほしい。資本主義だ。あんなもの嫌いだ。みんなが好きだから。みんなが好きなものはなんでも嫌いだ。だから、私は自己愛が強い。秋の寒さは冬の前触れ、嫌な予感を全身の皮で感じるよ。

 「恋愛中毒」を読んだ。リアリティがすごかった。「推し、燃ゆ」を読んだ。ある種、爽快だった。「渚にて」を読んだ。変な兵器を考える人がこんんな寂寥感を抱いていたなんて。どれもバッドエンドな気がする、でもそれがいい。ハッピーエンドの物語は、あとでバッドエンドになったらどうしようと不安でたまらない。

 夢中になって、雑草に水をやるのを忘れていた。でも、まだ普通に生えていた。雑草だから。

 ***

 冬は死にたくてたまらない。すべてが終わる。総決算が行われる。一年間の後悔と、悲しさ、辛さが、一挙に襲い掛かってくる。みんなはケーキにろうそくを刺して、忌まわしいすべてを吹き消すようだけども、私は違う。春にやる気の火をつけて、冬にはろうが溶け切って、こころがどろどろにあつあつに溶けていく。家族愛の温かさ、恋愛の温かさ、友情の暖かさ、なにもかも私にはない。なのにそれらにあてられて、精神が最初からなかったみたいに溶け切るのだ。

 あの友達からは連絡がなくなって、なんか寂しかった。もしかしたら本当に好きだったのかな。それとも周りが群れてるから不安なのかな。分からなけど、本を読めるほどの正気もなくて、マンションを飛び出した。あの雑草が目に入った。すこし萎びた気もするが、アスファルトの間で苦しそうに伸びていた。

 寒いけど、この裸の雑草の前でそんなことは言えない。私は蹲って、雑草に話し始めた。ずっと、なにもかもいやなんだって。あらゆる季節が、一年が、人生が、いやなんだよ。

 私は雑草の上で泣いた。涙が、春を越せる栄養になってくれるだろうか。それともしょっぱくて枯らしてしまうのだろうか。もし枯れたら、私も死のう。生きてくれたら、私も生きる。

 そう鬱々としていた私を、通りかかったサラリーマンが変な目で見ていた。

 きんぎょばち


 同志社と、立命館と、うちの哲学同好会のゆるい集会が終わって、サイゼリヤに行った。駄弁り終わって、同志社の二人はタバコを吸いに行ったから、立命館の二人は帰り道が違ったから、別れることになった。ぼくを含めた一回生三人と、その中の一人の彼氏さん、計三人でお祭りに行った。お祭りなんて興味がなかったけど、その場のノリで行った。

 少しだけ露店があって、そのひとつに金魚すくいがあった。最近倫理的になっている身としては好ましくない商売だけど、同行していた女性がきらきらとした目で金魚を追いかけているから、まだ残ってる夏の暑さにぼんやりとして傍観していた。金魚すくいはうまくいかなかったけど、店主さんの好意か、ぜんぜん売れないためか、六匹もらえることになった。

 僕はどうせ全滅するだろうと思い、冗談半分で「戒名を考えよう」と提案した。みんな笑ってくれた。慄き、ドックスフンド、フレグランス、元カノ、左派歯科医、リモコンマンの六匹。漢字とカタカナのバランスがいいんじゃないかな。

 「で、金魚は?」
 クリームソーダをかき回しながら訪ねる。喫茶店は冷房が効いていなかったが、その日は秋の初めだったから気は利いていた。
 「全滅だよ」
 アイスクリームがひっくり返った。思ったより早い! まだ二日なのに!
 「カルキ抜きがダメだったのかな……分からん」

 僕は倫理的葛藤と友情的葛藤を込めつつ、白っぽいメロンソーダになったそれをかきまぜた。メロンソーダはバニラアイスの柔らかな甘みに濁っていく。あの金魚たちは、どうせ死ぬとは思っていたが、こんなにも儚いものか。

 もし、このクリームソーダに入れられていたら、その短い生涯で、爽やかなエラ呼吸ができていたのだろうか。炭酸でさっさとくたばっていたのだろうか。

 まるいグラスは金魚鉢のようだが、そこにはなにも泳いでいない。泳いでいるのは、ぼくの未熟なこころもちだ。

 ひとがほつれる

 
 数学の問題を解きたがらないのは、結局のところ、そして究極的に言えば、数学者だ。なぜなら、あらゆる数学的問題を解いてしまったとき、数学者たちはすることがなくなるのだ。もはや仕事はない。役目は終わった。いずれ数学者という言葉自体が時代遅れのものとなるだろう。
 数学者たちが嬉々として数学的問題に取り掛かれるのは、結局のところ、そして究極的に言えば、どうせすべてを解くことはできないだろうと諦めているからだ。そして、できるとしても、しないだろう。どこかで気づく。いつのまにか、自分は莫大な規模の自傷行為をしていたのだと。そして最期はデタラメな数学の問題をでっちあげる。それで、より劣った数学者たちに希望を与えるのだ。

 実に不思議な話だと思う。だが、この不思議を不思議のままにしておけることこそが大切な能力だ。あらゆる不思議が消し去られた世界というのは本当につまらないだろう。たとえば、恋愛小説を読むとき、心理学・生物学・社会学の観点から主人公を分析して、実際にその通りの行動をしたとしたら、面白いのだろうか?たしかに、予想が当たって快感を覚えるかもしれないが、それは自分の能力に不安がある最初のうちだけで、いずれ飽きる。
 もう一つの説明をするならこうなる。子どもが、どうして僕は/私は生まれたの?と聞いてきたとして、どう答えるべきか。受精卵のメカニズムについて述べるべきだろうか?そんなわけはない。正しい答えは「パパ/ママとママ/パパが愛し合ったから」。ここで、愛とはなにか?と聞かれたら、答えに詰まるかもしれない。それでも、そんな不思議な世界に大人が生きているということが子どもには伝わる。

 それだけでとりあえずはいい。成長するにつれて不思議を減らしていけばいいし、それでもまだ不思議は残るのだから、いずれは心地よく死ねるだろう。

 その点、僕は本当にやらかしてしまった。勉強と内省を2年ほど続けている。最初は怒りや悲しみがあって気持ちよくはないが刺激があった。最近は、もはや滓ほどの気持ちも湧き立たない。裸の女を魅力的にするのは普段の隠れた姿だ。誰もが裸で歩き回っていたらいつか見飽きる。いままで、僕のややこしい問題は無知や情念という衣を纏ってくれていたのだが、最近は夏ということもあってかかなり軽装になった。そして、僕はそれに見慣れつつある…………
 ともかく、単純に疲れている、というのもあるのだが、勉強と内省が終盤を迎えたというのがなによりの原因だ。そのために僕は無気力になっている。あらゆる問題を解決してしまった数学者、犯罪者が現れないから役立たず呼ばわりされる警察官、ボールを追いかけ回したがいざ捕まえて口に咥えると追いかけ回す相手がいなくて立ち止まるしかない犬、そんな気分だ。
 人を、人種や性格などのさまざまな糸の集まりだとしたら、それはほどよくほつれている必要がある。分かりやすく言えば、矛盾や謎を抱えていなければならない。もしほつれを完全に解いてしまったら、ただただ何本もの糸が伸びているだけで、なにを作ることもない。重要なのは良い塩梅で・適切な方法でほつれること。それで手袋やマフラーやセーターができる。それらは、極めて規則正しく、人にとって有用なだけで、ほつれはほつれだ。糸を洗濯機に入れて回したらいずれそらのうちのどれかになるかもしれない。
 人はほつれを好む。文豪のエピソードがろくでもないものばかりなのに人気なのは、単に面白いというだけでなく、偉大にほつれているからだ。性格の悪い人でも好きになるのは、そのほつれが魅力的だからだ。僕はその尊いほつれを解こうとし続けた。哲学と文学を主軸に。しかし、やりすぎた。僕は僕の頭の中のほつれを解きかかっているし、あと少しでただの糸の束が現れることが分かっている。世の中のすべてがそうなると分かっている。

 後々、罪悪感と羞恥心に苦しむことになるかもしれないが、それでも途中でやめておくべきだった。ここ数週間、なんの気持ちも感じていない。誰を憎んでもいないし、誰を妬んでもいない。そして、誰に憧れてもいないし、誰を喜ばせようとも思わない。
 なにも思わない。強いて言えば、将来に対する霞のようなほのかな不安感と焦燥感が頭の上に漂っているが、それも「不安に思った方が、焦った方が普通なのでは?」という、世間の目を気にした理性の働きによるものな気がする。そして、「感じるべきだから感じよう」なんて合理的な感情は、やはり矛盾しているから、無意識を苛む程度のわずかな働きしかしていない。それでも、夜は2時くらいじゃないと寝れないし、身体中が緊張しているから運動をしていないのに毎日クタクタだし、たまに筋肉が勝手にピクピク動くし、心臓がバクバクするせいで肺が無理やり小刻みに息を吐かせられて上手く言葉が出ないし、実害は出ている。なんとかしたいが、ほつれを解こうとしたのは自分なのだから、その責任を取るのも自分なのだろうと、観念したい…………そうは思っている。

 次の日の話


 ・・・が死んでしまってから一日後の話。

 このマンションの一室には、・・・の痕跡が満ちている。・・・の好きな服。・・・の好きなCD。・・・の好きな手触りの枕カバー。・・・の好きなミルクティー。そしてなにより、・・・が抱き着いてくれたパジャマ。におい、このパジャマに染み付いたようなにおいだけは間違えなかった。同じ服を着て、同じ音楽を聴いて、同じ枕カバーで寝て、同じミルクティーを飲む人がいても、このにおいだけは間違えない。そして、僕がこの一室を歩き回れるのは、このにおいが導いてくれるからだ。

 しかし今日ばかりはベッドから動けなかった。思考も微動だにしなかった。「このにおいがいつか消えたとき、なにが僕を導くのだろう」

 そして、「このにおいが消えなかったら、もうこの部屋から出られないのだろうか」

 この部屋から出たくないし、この部屋から出たい。・・・のにおいに包まれたいが、・・・がいないのに嗅ぎまわることは虚しい。

枕と掛布団を捨ててから、マットレスに顔を押し付ける、そのような暮らしが三日続いた。

 ・・・が死んでしまってから四日後の話。

お腹が空いた。睡眠欲が食欲に負け始めたので、外に出ようとした。

外・・・外とはなんだ?扉の先の世界か?なら、扉の先からするとここは外の世界なのか?

 「なぁ」、どう思う?そう聞いてみた。……誰に?

 冷蔵庫の隣の壁に、小さいホワイトボードが掛けられていた。柔らかい筆跡で、「この→バッグさえ持ってけばOK!」と書かれていた。その通り、矢印の先バッグを手に取ってから玄関に向かう。「ああ・・・着替えることも書けばよかった」。誰かがそう言った気がする。フローリングから、冷たいコンクリートに踏み出した。「靴を履くようにも・・・」。


 外の世界はさまざまなにおいであふれていた。その中にはよいにおいやよくないにおいがたくさんあったが、たくさんあったので、よいにおいも選ばなかった。・・・のにおいを選び、その残り香をたどった。

 そうして僕は一軒の喫茶店に行きついた。昔は濃い緑だったのだろう軒先の厚ビニールはすっかり褪せていて、書かれている名前は読めない。扉のガラスはよく磨かれているので店内を透かせる。しかし、それがなんだというのか。このガラスに“店内の絵”が描かれているだけかもしれない。それは……それはそれで尖ってていいな。

 扉を開けた。

 「一……一名様ですね。お好きな席に」

 「べつに好きな席はないです」

 「……では、このカウンターの左端に。・・・さんとよく座っていましたよね」

 「……三?一名様ですが」

 「いや、・・・さんですよ」

疲れているんだろうと思い、話を切り上げて座ろうとした。においを辿り、左端の席に座った。

 「……左端じゃないですか」

 「においがするので」

 「はあ……」

 こんな真昼間からヘトヘトだなんてかわいそうだな、と思いながらメニューを取った。

 「この……サンドウィッチってなんですか。砂漠の魔女ですか?」

 「……パンにトマトとレタスとベーコンを挟んだものです」

 「……?どういうことですか?それって……」

 「どういうって……あーえっと上と下のパンがあって……」

 「いや、そうだとしても、それはトマトとベーコンがレタスを挟んでいるとも言えるじゃないですか。それに……」

 「サンドウィッチお一つでいいですね」

 「……」

 まあどんなものか気になるしいいか。

 詐欺みたいなコーヒー、カフェオレオレ……そんなことを考えているとサンドウィッチとやらが出てきた。

 「はい、これがサンドウィッチです」

 「待ってくださいよ、これってパンにトマトとレタスとベーコンを挟んだものですよね。サンドウィッチではないですよ」

 「は?それがサンドウィッチですよ」

 「答えになっていません!これは、パンにトマトとレタスとベーコンを挟んだものです!」

 「いや、だからそれがサンドウィッチで……!」

「意味、意義、理由、根拠、サンドウィッチにはなにもない!認めるか!」

心がどうにかしてしまったのだろう店員さんとしばらくそんな言い合いが続いた。

 「ああ、あなたそんな人でした!?読書を『ペラペラ音出しゲーム』って言ったり、もふもふの犬を『歩く棒付きの雑巾』って言ったり!どうかしてるんじゃないんですか!?・・・さんはなにしてるんですか!」

 「さっきから誰のことを言ってるんですか!・・・さんって!」

 「あなたの言う、においを発する人です。どこにいるんですか!?早く連れて帰ってもらいたいです!」

 ……………………

 「……いや、それはできないんです。・・・は、それを望んでいない……と思うので……」

 動悸がする。焦点が定まらない。心臓がうるさい。手が震えてやまなくて、なにも考えられなくなる………どうして。

 そのときだった。ギラギラとした指輪を嵌めた品のいいおばあさんが、僕の前に一冊の本を出した。あのにおいがする本。

 「これ、・・・さんに借りてたんだけど、最近うちのお店に来なくって。あなたに渡しておけばいいわよね?」

 「ええ……」

 「それで、なにを話していたの?」

 「いや……この人がですよ、僕はサンドウィッチを出すように言ったのに、パンにトマトとレタスとベーコンを挟んだものを出すんです」

 おばあさんは爆笑した。

僕はどうでもよくなって、サンドウィッチとやらに食いついた。パンにトマトとレタスとベーコンを挟んだものの味は、パンにトマトとレタスとベーコンを挟んだものの味だった。香ばしくて、また食べたいと思った。


 ・・・が死んでしまってから五日後の話。

 部屋の中が日に日に怖くなる。他人の家に来たような居心地の悪さを感じてきた。それが嫌になってにおいを嗅ごうとしたら、ベランダから落っこちそうになった。暇つぶしに紐を編んだ。僕が着れない無駄な服を切って繋ぎ合わせた。

 本当にやることがなくなったとき、あの本を見つけた。その本には懐かしく薄いにおいと、あの……サンドウィッチとかいうインチキパンの濃いにおいがした。

 ふつふつと怒りがわいてきた。そういえば、騙されっぱなしじゃないか。幸い、店員が、おじさんが写実的に描かれた紙きれなんかを対価に求める狂人だったからよかったものの、このままでは被害が増える一方だろう。一刻も早く懲らしめなければ!それに……また食べたいし、行こう。


 「いや、本当に恐ろしい道中でした。四つの脚を持つものが動いていたんです。あれは猫なのかネズミなのかゾウなのかペガサスなのか……四つん這いの変態だったかもしれません」

 「他の特徴は?」

 「もふもふしていたと思います。ワンワンと鳴いていました。英語で数えているのか、逆に中国人のワンさんを呼んでいるのか」

 「それ、あなたが昨日『歩く棒付きの雑巾』って呼んでた、犬ですよ」

 「歩く?棒?雑巾?イヌ?」

 「退化しました?……とにかく、サンドウィッチですね」

 「インチキパンをひとつお願いします」

 「……」

  急にクールキャラを演じ始めた店員がすぐに作って出してくれた。だが。

 「ちょっと待ってください、これって『食パン、トマト、レタス、ベーコン、食パン』を上に上に置いてった果てにあるものですよね!」

 「はあ!?」

 こいつは、本当に訳が分からないという顔をした。自覚のない狂人ほど厄介なものはない!

 「パンにトマトとレタスとベーコンを挟んだものですらないじゃないですか!

詐欺師がああああああああーーーーーー!!!!」

 僕は店員さんを睨みつけながら、店員さんに睨みつけられながら、インチキパン2を食べた。インチキパン1と同じ味がするな、香ばしくて、また食べたいなと思った。


 ・・・が死んでしまってから何日後の話。

 怖い。外の世界が、外に出ても内の世界にならない。内の世界が、内に入っても外の世界のままだ。外には知らない人たちのにおいがする。内にも知らない人たちのにおいがする。一人は、・・・で、もう一人は、僕だった。

 このパジャマには僕が僕に抱き着いたにおいがしてきた。というか、本当のところ、すっかりそうなっている。だが、僕は僕のことを知らない。興味がなかった。醜いとも思っていた。もっと、僕を見てくれる人、見たい人に話を聞いておけばよかったのだろう。僕について……

 僕のにおいで満ちたこの部屋が気持ち悪くてしょうがない。だが他人のにおいも耐え難い。ベッドに囚われていたころと変わらなくなった。

 ふと、目に留まったものがあった。一冊の本だった。そこから、インチキパンのにおいが、強く、強く、漂ってきた。

 僕はインチキパンを食べに行った。


 なにかを見ながら、どこかを通り、どこかに入った。

 「インチキパン」

 誰かがインチキパンを出してくれた。

 インチキパンは、今は7号くらいだろうか。13号くらいか?分からない。こいつが懲りてないのは分かる。こいつ?誰のことだろう……。

 インチキパンの味がする……

 「………」

 インチキパンの味がする。

 「………!!」

 インチキパンの味がする。

 「………ねえ!!!!!!」

 「うるさい!!!!!!」

 右隣を見ると、そこには誰かがいた。

 「ねえ、おにいさん、なんでサンドウィッチをインチキパンって呼んでるの?なんで毎日インチキパンを食べてるの?インチキパンおいしいの?インチキパンがありなら詐欺ごはんもあるの?嘘パスタとかも?幻ラーメンは?ねえねえねえねえ」

 やかましい音だ。

 「サンドウィッチってなんだよ」

 「おにいさんが食べてるそれ」

 「これはインチキパンだよ」

 「なんで毎日食べてるの?」

 「食べたいからだよ」

 「おいしい?」

 「おいしいってなんだよ」

 「食べたいってこと」

 「じゃあ食べたいってことはおいしいってことか?」

 「うん」

 「『食べたい』だけでいいだろ」

 「うーん、でも、『これまた食べたいね~~~』って言うより、『これ美味しいね~~~』って言った方が、『しあわせ~~~』って伝わりやすいと思うんだよね、誰かにさあ」

 「なんで誰かに『しあわせ~~~』って伝わりやすいといいんだよ」

 「なんでって、伝えたいじゃん」

 「なんで伝えたいんだ」

 「伝えたいから」

 「……君の答えは論理的に破綻している。伝えたいから伝えたいって言ってるんだぞ」

 「そうでしょ?」

 「……意味とか、意義とか、理由とか、根拠とか、ないんだぞ」

 「……インチキパンをなんで食べたいの?」

 「食べたいからだよ…………は?」

 少女は、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。そしてミルクティーを飲んでから続けた。

 「ああ、本当に、バッグのこと以外にもいろいろ書いておけばよかった。私がいないとおいしいってことすら忘れちゃうんだね」

 「…………………」

 「まあでも、最期にかわいいところを見れてよかったな……」

 「……これから僕はどう生きればいいんだ。この世界にはなんのにおいもしないだよ」

 「私を見つけたみたいに好きなにおいを見つけるんだよ。インチキパンのにおいから初めて、犬のにおいとか、本のにおいとか、嗅いでみるといいよ」

 「僕自身のにおいは?」

 「あなたを嗅ぎたがる人たちから、あなたを抱きしめる人たちから、漂っているよ。それをまた嗅ごうとすれば分かる」

 「……君はたぶん、いま、この世界のすべてを説明している」

 「そう?ありがとう。それより……あの本はちゃんと仏壇の前に供えてね。服をビリビリに裂きまくった代わりに」

 「本当にごめんなさい……」

 彼女は笑って言った。「死ぬまで許さない」。僕は言った。「もう死んでるでしょ」。


彼女が死んでしまってから一カ月後の話、僕が生き返ってから5日目の話。

 僕の部屋は、僕のにおいで満ちていて安心感がある。だが、外に出るのもいい。

外には、僕が犬と呼びたくて犬と呼んだものが。電柱とか空もあるし、変な人もたまにいる。外の世界にも、僕のにおいは満ちている。だが、その喫茶店の、いちばん左端のカウンター席。そこに座れば、右から彼女のにおいがする。

 その席に座って、普段は供えてあるあの本をめくると、彼女のにおいがする。たまにこのにおいを嗅ぐのが好きだ。好きだから。

 「はい、インチキパンです」

 「いや、これはサンドウィッチで……」

 「あなたからインチキパンって呼び始めたんですよ。あのおばあさんのせいでもうその名前が広がってるし、インチキパンです」

 「しかし風評が……」

 「真昼間からパジャマで裸足で喫茶店に通い詰めるあなたの風評も最近は怪しいんですけどね」この前も虚空にぶつぶつ言ってたし・・・彼はそう続けた。

 「それはなんというか……うーん、格好に関しては、僕以外が勝手に着たり履いたりしているだけということで……」

 通るわけないでしょバーカ。そう返された。

 そんな感じで話していると、彼がインチキパンを出してくれた。

 いつものようにかぶりついた。うん、おいしい。香ばしいし、これはおいしい。僕はインチキパンをひとつ包んでもらって、部屋に帰り、仏壇の前に供えた。 
 「おいしい」。そんな声が聞こえた気がする。いや・・・・・・聞こえた。

 たんぽぽの美

 
 この世でもっとも美しい花はたんぽぽです。

 バラは嫌いです。あまりにも色が強い。美しすぎてわざとらしいし、もう美しさの一つになってしまっているので美しさを見出せません。
 アジサイも嫌いです。季節を選んで来るのが気取っています。そのくせでかい丸顔を淡く色づけているのが、ぶりっこ精神丸出しです。

 たんぽぽは、それほど色が強くないです。というかたんぽぽって昼にしか見ないし昼は世界全体が明るいので強く見えません。また、同じような見た目の要素がある花でもひまわりのように目立ちたがり屋ではなくそっと一輪か二輪で生えているのでさりげないのです。雑草の中で咲く、健康で平等な花です。季節も選ばず、年中わたしたちを喜ばせてくれます。

 たんぽぽは、この世でもっともありふれた花です。そして、この世でもっともありふれているという点でありふれていない唯一の花です。たんぽぽは、いつでもどこでも見れます。たんぽぽは、貧乏人にも金持ちにも、歩かせます。道端にたくさんあって、道端にしかないので。

 たんぽぽが消えるかバラが消えるかならバラが消えた方がいいのです。たんぽぽは、近すぎるがゆえに見えない、仲が良すぎるがあまりに仲が良いと気付けない、日々の幸福や大切な人々と同じ存在です。

 たんぽぽは、いつか。真っ白く、儚くなります。そして新たなる命に、子供たちに、いのちの息吹を吹き込まれるのです。

 たんぽぽは、同じくらい真っ白で儚い雲にふわっと消えていくでしょう。そしてまた咲くのです。そしてまた、今度は、子供の子供に見つかるのでしょう。

 しかしたんぽぽも見ています。あなたのお父さんお母さんが、あなたのように吹いたことを。

 画鋲


 もう一つ、そう思って手を伸ばしたが、なににも触れなかった。手元を見てみると、そこにはプラスチック製の小さな空箱があった。

 はぁ・・・

 あと一つだけだったのに、足りない。叔父さんの部屋にもあったはずだからそこから貰おう。押さえつける手を離すと、ペロッと左上から捲れて苛ついた。白装束のように白いワンピースを着た女が右半身と両足だけを見せている。

 畳をシュウ・・・と踏み鳴らしながら引き戸をガラガラと開けて、縁側に出る。ささやかな夜風が肌を撫でつけて腹立たしい。パジャマだと肌寒いなと思いながら歩くと、中庭に、若い女が見えた。月光に照らされているだけなので容貌はよく分からないが、たぶん髪は長く黒く、真っ白なセーラー服を着て、真っ白な裸足を晒していた。薄汚れてもいたので棄てられたマネキンのように見えた。死人のように微動だにせず、あとちょっとの浅い呼吸だけで、ベンチの上に寝っ転がっていた。

 こんな夜更けに・・・めんどくさいな・・・・・・そう思いつつも、綺麗だったので近づいて見ようとした。怠さが足音に現れ、それは荒く、彼女を起こした。

 「・・・・・・なんですか」

 はぁ・・・・・・本当にめんどくさい。なにか話さなければならない。

 「いやね・・・なにを見ているのかなと思って」

 「星・・・星と星」

 「なるほど。人様の中庭のベンチから見る月はどうだ?綺麗か?たまには鏡を見るのもいいと思うぞ」

 「鏡なんて見てもなにも綺麗なものなんてないよ」

 「なるほど・・・じゃあ好きなだけ星を見ればいい。生物が寿命を払うことで見れるようになる、浮世のサブスクだ」

 女は話している最中も星を見ていた。僕はもう一人の女性を思い出して、叔父さんの部屋に行った。まだプラスチックで包装されている新品の箱が二つと、使用中の一つがあったので、二つもあるならと新しい箱の片方を貰った。

 縁側に戻ると女はベンチから立ち上がっていた。

 「行くのかよ」

 「朝になったら眩しいから・・・」

 彼女が去ると思うと、億劫な気持ちはもったいない気持ちに変わった。まだ彼女を見飽きていない。

 僕は箱の包装を焦って乱暴に破り、箱を左手に、蓋を箱との間に挟んで持って、画鋲を取り出した。それを上に向かって刺し、夜を留めた。朝焼けが来た(いや、焦った僕の錯覚だったかも)ので二本目と三本目を適当に刺し、四本目で四方を留め終え、夜が空に張り付いた。次いで、星々を留めた。

 「・・・・・・」

 彼女はベンチに腰掛けて、また星を見始めた。僕は動くものが大っ嫌いなのだが、彼女は静止していたし、生きも死にもしない気がする。唯一、彼女だけは僕じゃ殺せない気がして、綺麗だった。だから僕はもう四本を取り出して彼女をベンチに留めようとしたが、激しく、つまり醜く抵抗され、十六本も使ってしまった。

 作業が終わってほっとしたとき、再び僕の部屋で待っている彼女のことを思い出し、速足で戻った。扉を閉めないままポスターの前に立って、箱に手を伸ばすと、指先は壁と底に触れた。手元を見てみると、そこにはプラスチック製の小さな空箱があった。

 はぁ・・・・・・・・・

 あと一つだけだったのに、足りない。
 

 京都人のヘタクソ皮肉と障碍者手帳

 
 京都の方は皮肉がお上手だとか、そういう噂をネットでよく見ていたのですが(リアルで聞いたことはありませんよ、話す相手がいないので!)、いやいや京都の方は皮肉が下手です。ただの悪口、いや、生まれてきてしまったことへの懲罰ですかね。それが得意です。

 精神障害者手帳というものがあります。名前の通り、精神障害者の方が取れますし、発達障害者の人も取れます(これは不思議です!発達障害は脳の構造の少数派なのですから、身体障害のはず)。これはF級からSSS級まであって、ゴブリンやオークをたくさん倒すとどんどん級が上がっていきます。うそうそ、実際は3から1で、障害のひどさに応じて級が上がり、いろいろ特典を貰えます。

 その特典の一つとして、公共交通機関(市営バスとか)が半額になる、というのが静岡ではありました。ICカード?なんかよく分かりませんがあのカードと手帳を連結させてくれているみたいでした。使うたびに勝手に半額にしてもらえたんです。

 いやあ、それに比べて京都はすごい!バスはもちろん、電車まで、半額どころか!無料ですよ!障害者を移動させてなにがしたいのか分かりませんし、障害者なんて基本的に動きたがらないと思うんですけどね、とにかくすごいですよ。

 ただ、最悪なこともあります。駅の改札口と、バスを降りる際に、手帳を見せないといけないんです。障害者アピールしないといけないんですよ~~~いちいちね~~~。

 そんなんいやですよ。駅員さん、バスの運転手さん、他のお客さん、いろいろな人にどう思われているのか??????たくさん考えてしまう!それに、学校の先輩とカラオケに行ったとき、電車を使ったのですが、手帳は使えませんでした。恥ずかしいというか、どう思われるのか不安でね!で、もったいないなあとしょうもなく思いましたね。

 まあ、ともかく、皮肉っぽいですよね。障害者を無料で移動させてあげるが、いちいち障害者アピールをするように求める、とは。でも皮肉じゃないですよ。気づいてしまった時点でもう皮肉じゃないんです。ただの無配慮ですよ。皮肉としては、ヘタクソすぎる……………………


 ボツ1

 誰にでもあるだろう。道を歩いていたら、前から来た人とぶつかりそうになって、お互いに道を譲ろうとして、避ける方向が被ってしまうこと。だから却ってぶつかりそうになってしまうこと。もし、その相手がスーツ姿のそれなりのお年の人なら、確実に通勤中か帰宅中であり、仕事のこととか飯のこととかをぼんやりと考えているはず。いつものルーティーンをこなしているだけなのだから。そんな人は、たとえ大勢の他の労働者の群れにいようと、東京の中心街にいようと、極めて孤独なのである。その人は完全に自分の思考の中に浸かっている。その人は誰を妨げることもなく、誰に妨げられることもない。だから周りの人間と何の関係もない。たとえば百人の人間がいるとしても、その場所が個々人のいつもの経由地に過ぎないのなら、「百人という大勢が一つある」のではなく「個人が×百いる」だけだ。
 そのような雑踏あるいは人混みの中にあっては、実は個人なんていない。個人というのは、固有の身体と職業と性格と嗜好と主義と人間関係と経験を持つ人間なのだが、そのどれにも関心を持つことはない。身体を除く個性は内面的であって一見すると分からないし、身体にしてもみんなが同じような格好をしているのだからしょうがない。雑踏や人混みの中で、いつもの経由地としてそこを行く人はたちは、完全に「群れ」という二語にまとめられていて、そこには人間性などまったくない。その人たちは、家族や友人や恋人や同僚と付き合っている間だけ人間でいられる。その人たちが向かう場所、あるいはそこから帰る場所では、つまり仕事をするときの職場では、やはり人間ではいられない。さまざまな商品やサービスは個人に作られるのではなく、労働者に作られる。そして労働者というものはどこにでもいて、それでいて労働者そのものはどこにもいない。消費者と物品・サービスに繋がりがあろうと、物品・サービスと労働者には繋がりがないため、消費者と労働者も繋がらない。なんらかの作品作りであれば、制作に関与することで名前が残るが、それでも名前だけだ。結局、その人たちが人間でいられるのはたいてい家の中だけであり、少数の人間と付き合っているときだけであり、外や大勢の中で他者と同じ場所にいることなんてなんの意味もない。そして、大体の人はそういう人間になる。人の中で孤独になる。
 だから、道を譲り合おうとして却ってぶつかりそうになるときは快感なのだ。私はいつも通りどうでもいいことを考えながら歩いている。そして、いつも通り周りをどうでもいいと考えている。変なティーシャツを着ているときに変な目で見られないか気になったり、危なそうな人を事後的に気を付けたりはするが、その程度である。そんな私が、なにげなしに道を譲ろうとしたら、失敗してしまうのだ。そして、無為な思考が中断され、意識が覚醒する。どうでもいい人間から一人が、私の前だけに現れ、一瞬とはいえその人の見た目や表情や仕草に頭がいっぱいになり、道を譲ることに全力を尽くすのだ。それは一瞬の些細な出来事ではあるが、あの人間性の無い人の群れという大きな崖の、その一片が崩れたということである。私はその人を「ぶつかりそうになった人」という記号に括り、そんな人はいくらでもいる。しかし、確実に、その人を人間と見なさずにはいられなくなるのだ。
 それに気づいた日から、私はそのような瞬間を愛でることにした。コンビニでラーメンを買って、それがにおいのきついものなので温めなくていいと言ったのに温められそうになってお互いに慌てたとき。図書館で読みたい短編が入った小説を予約しようとしたら五人も待っていて「そんなに!?」「そんなになんです」と言葉を交わし、代わりに単行本版がここにありますよと教えてもらったとき。つまり、日常が、わざとらしくなく、それでいて不意に、優しく破れる瞬間である。
 私はそれが気休めに過ぎないことを分かっているし、私が個人を消してしまう瞬間だってあることを知っている。たとえば、レジの中で和気藹々と話していたアルバイトの人たちが、商品を持っていく私を見て、急に張り付けたような笑みと規格化された朗らかな声で武装し、資本主義の一兵士に変わってしまうのだ。あの瞬間の罪悪感と寂しさはたまらない。あるいは、なにやらいがみ合っているような二人が急にそうなる瞬間の、不気味で無機質なおぞましさ。
 だが一人が何を感じていようと社会は関係ない。多くの業務が機械化され、リモートワークも一つの方法として定着し、人との関わりは減り、何にしてもハプニングはできる限り減らされるべきらしい。あのような奇跡の瞬間は刻々と消えつつある。それでも覚えておいてほしいのは、人間は人間の中でさえ孤独になりえるということと、他人との関わりが減ればその孤独から抜け出せなくなってしまうということだ。



 詩集


 白い息吐きながら食う白いアイス
 雪の山で遊ぶ子を馬鹿だなと思う

 メロンの池にバニラの球
 しゅわしゅわとはじける金魚鉢に泳ぎたい

 パンの耳ちぎってチューブ塗る朝食
 マナー講師の吐き気

 病弱なあなたにひとかけらの焼き鳥を差し出す
 それが積もっていくからニコニコと笑った

 ネックレス巻いた手首から葉に乗り移る蝶の
 1匹と1人の美しさよ

 ひこうき雲
 空のリスカ跡

 スーパーで、いつもレシートを受け取っては傍の捨てるとこに捨てる
 今日はあえて受け取った
 「今日も受け取ると思ったか?」と内心で世界を挑発しつつ


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