【哲学】音楽は存在しない【現象学】
音楽は好きだ。
邦楽と洋楽、ロックやジャズはもちろん、演歌や軍歌、ボカロやEDMだって好きだ。
音楽はどこにあるのだろう。
私たちの頭の中?いや、完璧な脳内再生は不可能。ではCDやUSBの中に?
そうだ。でも、その音楽を聴かずになぜその音楽があると言えるだろうか。
「このCDの中には最高の曲があるんだ!俺は一度も聴いたことがないし、俺以外の誰も聴いたことがないけど、あるんだよ!」
正気とは思えない。
ある音楽の存在を確信できるときは、音楽を聴いているときのみである。
つまり、本当に存在する音楽は「聴かれる音楽」のみである。「聴かれない音楽」という言葉は角が三つの四角形と言うようにその文を構成する言葉同士で矛盾するのでありえない。
音楽が聴かれることありきの存在であれば、もちろん、聴かれ方によって音楽は変化する。聴かれ方は聴く者の状態、心情、感性、おおざっぱに言えばメンタルに左右される。
そしてメンタルは以下の項目による。
1.場所
たとえば大きなコンサート会場なのか、50人規模のライブハウスなのか。自宅なのか旅行先なのか。
2.時間
朝なのか、夜なのか。この後に用事があるのか、済ませたのか。本来は仕事をしている時間なのか、完全に休みの日なのか。
3.周辺の人々
家族と聴いているのか、恋人と聴いているのか。好きな人と聴いているのか、嫌いな人と聴いているのか。
4.聴覚以外の感覚を刺激するものがあるか
靴の履き心地は悪くないか、飲み物がまずくないか、服から異臭はしていないか、露出狂でも見えていないか。
5.精神的に動揺しているか
興奮、うつ、錯乱、鈍感な状態であるのかないのか。
6.精神的に疲弊しているか
寝起きで元気なのか、7連勤後なのか。
7.その音楽に対してなにを経験しているか
初めてなのか、聴き慣れているのか、どこかで聞いたことがあるのか、嫌な思い出があるのか。
8.その音楽が好みか
これは文字通りの意味である。
これらの項目すべてが再び一致することはあり得ない。時間だけとっても、同じ時間は二度と経験できないから。ゆえに音楽は一期一会の存在である。
そして、音楽がこのような様々な条件を含むものだとしても、ある音楽そのものという考え方は便利だし、今まで通り音楽について話すには不可欠だ。ゆえに前者を「広い音楽」。後者を「狭い音楽」と呼ぼう。
聴く者はもちろん作者を含む。作者でさえもメンタルによって自らの音楽を”そのまま”には聴けないのだ。楽曲生成AIとかならともかく。
この哲学は聴覚による音楽に向けての哲学だが、視覚による絵画や、その他の感覚に訴える芸術、それどころか料理(味覚)やお笑い(いろいろな感覚の複合)、エンタメすべてに対して応用できるだろう。
聴かれ方の概念には功罪がある。
聴かれ方によっては良い音楽も悪い音楽に変わってしまう。
そして、悪い音楽は主にマーケティングによって良い音楽になるだろうし、良い音楽はさらに良い音楽になるだろう。
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