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2022/11/25(金) さてどちらが本物なんだろうか

本番の前日。明かりが入ったことで、前回のスタッフ見せの時より随分と作品の印象が変わっていた。
稽古場で見ていた時までは、いつまでも見ていられる「インスタレーション作品」だと思っていたものが、見た感のある「舞台作品」に化けてきている。やはり構成力、最後の最後での作品の調整力がある作家がこの中屋敷南という振付家なのかもしれない。振付も変わっていたのでダンサーの対応力の賜物でもあると思う。

「作品は、空間と照明と音楽が入った時に初めて完成するようにつくらないといけない」なんて聞いたことがあるけれど、この作品は映像と、照明と、ダンサーと、音楽とと要素がたくさんある。それを、ダンサーや振付といった視点からはもう一歩引いて、全体の見え方で調整していく作業。ありふれた調整のコミュニケーションかもしれないが、やはり各セクションを担うスタッフ間のやりとりは面白いので耳をそばだてる。

稽古場にあった空気と、ここにある明かりが入ったことで舞台作品特有の作品感が出てきた空気。さてどちらが本物なんだろうかとも、ふと考える。
そんなことを考えるのも、ここまで見てきたところ「本番を頂点に捉えた作品制作の仕方」をしているように見えないからだと思う。作り方や見え方の試行錯誤を繰り返すこと自体を、苦しみながら楽しんでいるように見える。

そして、南さんはやっぱり踊りが上手い。
振付をやっていくと自分では踊らなくなる人もいるが、この人の作る作品は彼女自身が作品の中に入ることへの重要性がとても高いのだろうなと感じる。自作自演することで様々出てくる不都合よりも、この人は自分も踊ることを選ぶんだろうなという意思を感じた。
一方で、稽古場の明かりの元、彼女の掛け声のもとでの作品づくりの場では、彼女が一番上手く見えてしまったり三者三様の身体に見えてしまっていたのが、今日はとても1体の生命共同体のように見えた。イソギンチャクのようだった。それはとてもこの作品にとっては正解の方向のようだと思う。

マイペースなように見える南さんは、今日も、誰かに対して急かすようなこともしなければ、過度にお願いすることもない。淡々と、ただ今日は流石にちょっと南さんなりに本番前の独特の空気があったように思う。何かが見えているんだろうな。

帰り道で面白い話を聞いた。「南さんマジックって呼んでるんですけども、稽古場で、本番の一週間前まではこれ本当にできてるんだろうか?と思いながらやっていても、気付いたら作品ができているんですよ」と。
実験の数々が像を結んで、大量の変更事項やコメントがあるのもこのラスト1週間とのこと。さて、明日はどんな本番が見られるのだろうか。

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