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冬の寒さに言い訳をして、朝ベッドから出るのが遅くなっています。
部屋にエアコンが無いことも言い訳にして、電気ストーブが遠いことも言い訳にして、外がまだ暗いことを言い訳にして、布団をかぶって身体を丸めています。

起きてはいるのです。毎朝6時には起きています。会社に勤めていたときと同じです。
ただ10分以上ベッドから出られないだけ。。。

暗い布団の中でもiPhoneの光で画面は見えるので(目にはよくない、それはわかってる)、ひたすらTikTokを見ています。

TikTokで何を見ているかといいますと、基本的に猫です。

猫。猫ばっかり見ています。だいたいずっと猫です。

家主を出迎えていたり、膝によじ登っていたり、伸びをしていたり、ゴロゴロ鳴いていたり。

その全てがずっとかわいい。かわいい。

かわいいです、猫。

あー全然わかっていなかったなぁ。「かわいい」ってこういうことなのかもしれないな。猫を通して「かわいい」に対する理解を進めています。

流れてくる動画は所謂一人称視点なので、動画を撮っている人の視点で猫を見ることができるのですよね。
人があんまり映らなくて、足元とか手とかだけが映るくらいなんです。まるで自分が猫と一緒に暮らしているみたい。

これがかわいいのなんのって。。。

ちなみに私は猫と暮らしたことがありません。犬もないし、鳥もないです。
カブトムシと金魚だけです。どちらも子どもの頃の話で、今はいません。

友達の家にいる猫とはちょっとだけ接したことがあります。あぐらをかいている私の脚に座りに来たり、あるいはただ前を通り過ぎたり。しばらく見つめられたり。見つめ返すとそっぽを向かれたり。

そういえば一度だけ猫カフェにも行きましたね。そのときは横になっている私の横で寝てくれたな。寝てくれたなって変な言い方だけれど、私からすると寝てくれたなって感じ。

一緒に行った友達はひたすら猫じゃらしとかで呼んでいたけれど、素通りされていました。それで、その素通りした猫が私の横に来てくれたんですよね。

嬉しかったなぁ。

「ペット」という言葉がなんとなく好きではないので、どう書いたらいいものかと思うのですが、猫は猫でいいのかなと思ってみたり。

人がお世話をしていることに間違いはないのだけれど、「飼っている」という表現もなんか嫌なんです。「飼い主」とかも、うーんという感じ。いや、飼っているし飼い主なんだとは思いますけれど。
なんなんだろ、この感覚。

一番好きなのは「猫と暮らしている」「一緒に住んでいる」って言い方。なんとなく体温が感じられる気がして、あったかい気持ちになる。

脱線しました。

猫と暮らしたことがない私ですので、一緒に暮らすことがどれだけ幸せなことか、あるいはどれだけ大変なことかも全然わかっていません。

TikTokや友達の様子を見る限り、幸せそうでした。大変そうだったのは医療関係のことです。予防注射とか。吐いちゃったら片付けたりとか、病院に連れて行ったりとか。このあたりは人の子どもも一緒かもしれません…が、私には子どももいないのでわからない。。。

新年が始まってから、毎朝毎朝iPhoneで猫を眺めてはほくほくしていました。ずっと眺めていたいくらいずっとかわいいし、自分でもわかるくらい笑顔になっていまして。

「あー起きないとな…でもあと一個だけ」

「おなか減ったな…そろそろ出ないとな」

そうやって縦スクロールを繰り返す。
穏やかな春の日のような時間(外気温2℃)。

あるときふと

「もし自分が猫と暮らしていたとして、
彼らが亡くなったあとも私は生きていけるのかな」

という問いが生まれました。

寿命でいえば、猫は人よりも短いと聞いています。つまり、30代である私が今から子猫と暮らし始めたとしても、私よりも猫の方が先に死んでしまう計算になります…なってしまう。はず。

そうなったとして、いざそのその日が来てしまったとして。
私は生き続けることができるだろうか。

反射的に「無理かもしれない」と思いました。こんなにかわいい存在と「ともに過ごした時間」を経験したあと、「いなくなった時間」をひとりで過ごすなんて。

知らなかったときとは違う、もう知ってしまった自分が、こんな「不在」を感じながら生きていくことなんてできるのか?

堪えられないんじゃないか。生きていく気力が尽きてしまって、朝起きることすらできないんじゃないか。

そんな気持ちになってしまいました。

そして、猫との別れを経験してきた友達のことを考えました。
彼らはみんな「その日」の前後数日間は元気がありませんでした。

笑って話したりもしていたけれど、なんもなく芯が薄くなっているような印象を受けました。もしかしたら、いや、もしかしなくとも、こういう感じが「大事な存在を失った人」ということなのかもしれません。

そのときはよくわからなかったけれど、今の私は彼らと接するだけで涙してしまうかもしれません。
何を言ったらいいのか、あるいは何を言ってはいけないのかがわからなくて、何も言えないかもしれない。

これ以上目の前の人を傷つけることなんてしたくないけれど、取るべき行動の正解がわからないから何もできない。

そんな気がします。

動物と一緒に暮らしている人が、一緒に暮らしている動物について

「〇〇は家族だから」

と言っているのを聞いたことがあります。
そのときは「そういうものなのか」くらいの認識だったのだけれど、今となっては全然違う。

家族。家族かぁ、と。

一緒に暮らしていた家族がいなくなってしまう。愛していた家族がいなくなってしまう。もう絶対に、何があっても元には戻らない。
そしてそれは避けようがないことで、それは予めわかっていたことだし、それが来たというだけ。

わかっていたこと。わかっていた…ことなのかな。そんな簡単な話なの?本当に?

気がつくとベッドの中で泣いていました。TikTokからは依然として元気な猫たちが歩いたりあくびをしたりしています。鳴いていたり、膝に乗ったりしています。

「どうしたの?」「かわいいねぇ」と人の声がします。

あったかくて、やさしくて、これがたぶん「愛情」なんだと思いました。

先ほど書いた友達の家の猫たちが亡くなったのは、5年前や10年前です。

5年10年経った今も、彼らと猫の話をすることはありません。
これからも、こちらから話題として振るつもりもありません。
敢えてしたいとも思わないし、もしかしたら傷口はまだ塞がっていないのかもしれないから。
…一生塞がらないのかもしれない。ずっとずっと血が流れているのかもしれない。

でも、きっとそれぞれの形で受け止めているから、彼らはまだ生き続けているのではないでしょうか。

勝手に想像しているだけだから、当人たちからすれば的外れなことばかり言っているのかもしれないけれど、猫と暮らしている人はある種の覚悟を持って、いつかくるその日に臨むことを決意して、愛情を注ぎながら一緒に暮らしているのではないでしょうか。

態度は人それぞれだったけれど、私が知っている限り、動物と暮らしている人はみんな彼ら彼女らのことを愛していたように思います。

愛してしまったら、いなくなったとき辛いのに。
それがわかっているのに、愛していたように思います。

そう考えて、勝手に彼らに対する敬意を感じました。

私は弱い。弱くて愚か。もしも「その日」がきたら心がグシャっと潰れてしまいそうな気しかしない。「その日」のことを考えただけで私には無理だと、猫と暮らさない人生を選びとってしまう。気がする。

猫と暮らしている人と、人と暮らしている猫の全てが幸せであってほしい。
人と暮らしていない猫も、猫と暮らしていない人も、みんなみんな幸せであってほしい。
猫に限らず、犬も、鳥も、昆虫も魚も、人も。
誰かと一緒に暮らしている人も、そうでない人も。
地球に生きる全ての生き物が幸せであってほしい。

最近はそんな祈りも込めて、相変わらずTikTokで猫を見ています。

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