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アンチパラパラチャーハン

 そのチャーハンに口をつけた瞬間、ビビビと電撃が走った。
 とてもベチャベチャなのだ。
 これは「餃子の王将」のキムチチャーハン。
 王将のチャーハンはどちらかと言うとベチャッとした仕上がりであるのを知っているので、元よりその覚悟は出来ている。
 そしてこれはただのチャーハンではない、キムチチャーハンなのだ。
 ウェッティーなキムチが加わることでベチャベチャ感が増すのは、この世の道理である。
 私は今まで王将のベチャベチャ系のチャーハンに慣れていた、つもりだった。
 何故そんな私が衝撃を受けたのか。
 それは、これまで経験したことがないほど極端なベチャベチャ加減だったからである。
 向こうがチャーハンと名乗っているからかろうじてこれがチャーハンだと私の脳が認識しようとしているが、実際に接して観察してみれば、これはただの「油まみれ飯」とでもいうべきシロモノだった。
 明らかに油の量が多い。
 米の一粒一粒・具材が油で容赦なくまみれており、いつまでもオイルの波状攻撃が続く。
 しかし、このチャーハンは
 実際のところ美味しかったのである……

 ベチャベチャでも充分に美味しい、その点が衝撃的だった。
 「チャーハンはパラパラしか認めない」という人がこのベチャベチャのチャーハンを口にしたらその場で白目を剥いて卒倒し、そのまま救急車で運ばれることであろう。
 私もどちらかと言えば「チャーハンってパラパラなのが美味しいよな」と思っているクチである。
 しかし、それは果たして真実なのだろうか?
 チャーハンはパラパラでさえあればそれで良いのだろうか?
 パラパラな点はクリアしていても、味気ないチャーハンというのも実は存在するのではないだろうか?
 現に、ベッチャベチャでも美味しいチャーハンがここに存在するのである。
 我々は「チャーハンはパラパラであるべき」という既成概念に、あまりにも固執していたのではないか。多様性の受容が声高に叫ばれるこの時代、チャーハンにも多様性があって然るべきではないだろうか?
 きっと、この日の王将の厨房では、この世がパラパラチャーハン派閥で埋め尽くされているのを心苦く思う憂国の士が中華鍋を振っていたのだろう。
 彼ないし彼女は、アンチパラパラチャーハン派の急先鋒である。だからこそ、ベチャベチャチャーハンには比較的寛容な「餃子の王将」という職場に身を置いているのだ。
 とは言え、パラパラチャーハン原理主義が台頭するこの世において、あまりにもベチャベチャなチャーハンを提供していては、結果的にその店舗の評判が落ち、挙げ句の果てには潰れ、料理人という職を失うことになりかねない。
 普段は自分の本当の想いを押し殺し、この世の基準の常識範囲内と思われるややベチャベチャなチャーハンを作ることで、むなしくも己の職務を全うしていたのだろう。
しかし、このままでは世の中は全く変わらない。もうどうなってもいい
 その想いが突如爆発し、修羅と化したシェフは辞職覚悟で情熱のままに中華鍋を振って超ベチャベチャなチャーハンを作り上げてしまった。そしてそれは、空腹の私の元へと運ばれたのである。
 その危険な賭けは、どうやら成功したようだ。
 「チャーハンと言えばパラパラ」という思想にドップリ浸かっていた私は、いま大変に動揺している。転向を余儀なくされている。
 このキムチチャーハンは美味しい。
 ベチャベチャであってもそれが美味であれば、これ以上何を望むことがあるというのか。
 このチャーハンには「ベチャベチャなチャーハンがあったっていいんだ!」という作り手の慟哭にも似た心の叫びが感じられる。
 これは、チャーハンの名を借りた一種のアジテーションである。
 これは、アンチパラパラチャーハンの金字塔である。
 ここまで胸に迫ってくる「食」が、かつて存在しただろうか?
 仮にこのキムチチャーハンが生まれた理由が「ただのうっかりの油の入れ過ぎ」だったとしても、その不都合な真実には目を瞑り、新時代のチャーハンの到来を心の底から祝福したい。

 それにしても、ベチャベチャなキムチチャーハンをかき込む手が止まらない。
 とうとう私は油まみれの飯を平らげ、空いた皿にレンゲを放った。
 「カン!」と鳴ったそれは、来たるべきチャーハン・ウォーズの火蓋が切られる、新たな戦いのゴングなのであった。



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