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親子の再会

遠山景晋(とおやま・かげみち:1764~1837)は、有名な遠山の金さんの父親である。

幕府役人の中で「三傑の一人」と謳われたほどの有能な人物であった。

しかし、役人としては長く芽が出なかった。

その芽を出し始めたのが、西丸小姓組士(にしのまるこしょうぐみし)であった、1799(寛政11)2月に、当時、幕府が開始した東蝦夷地(ひがしえぞち)の直轄政策に関わり、蝦夷地掛(えぞちがかり)を務めた松平忠明(まつだいら・ただあき)の蝦夷地出張の随員に選ばれたことである。

景晋は、その年の3月に出立し、蝦夷地を巡視して9月に帰った。

その時の紀行文が『未曽有記(みぞうき)』である。

写本は国立公文書館内閣文庫や東京大学史料編纂所などに伝存している。

約六か月に及ぶ長旅であり、しかも東北から蝦夷地に渡り、同地を旅するという、当時としてはかなり困難な旅であった。

そのため、江戸への無事な帰着は、当人にも、また家族にとっても感激はひとしおであったようである。

9月14日に奥州道中(日光街道)の草加宿(そうか・じゅく:埼玉県草加市)を出て、千住(せんじゅ:東京都足立区)でしばし休息し、旅装を改めて発ち、小塚原(こづかっぱら:荒川区)から下谷(したや:台東区)へ向かう道を進み、上野山下に着いて、出迎えの家族と対面した。

出迎えに来ていた、当時七歳の「金さん」を見つけ、景晋は嬉し涙を流している。

それには理由があった。

景晋六歳の時、1757(宝暦7)頃、実父の永井直令(ながい・なおよし)は、大坂への出張を命じられ、任務を終えて江戸に帰着したが、父の出迎えに来ていた景晋は、疱瘡(ほうそう)の治った直後であった。

顔面は赤と黒のまだら模様で、しかも、でこぼこ顔だったため、直令は「こは、我が子にてありけるか。」と目を疑ったという。

大坂主張中に、景晋が重症の疱瘡にかかったことを聞き、江戸に戻る頃には、死んでしまっているものと覚悟していたが、命ながらえた子に体面できたことに感激し「悲喜の泪、こもごも眼に余りし」と涙を流している。

このときの感激を、景晋が成人したのちも、折に触れて直令は話したという。

どれほど感激したかを物語る逸話である。

景晋は、出迎えに来ていた家族の中に「今、次郎小冠者(じろうこかじゃ:金さんのこと)か無病にて、おとと打(うち)つれて迎へに参り、夏たけ(長)秋さる(去る)間に、かうもそたち(育ち)、心おとなしうなりし」息子の姿を見つけ、幼少の頃の自分と父親とを重ね合わせてしまった。

「悲喜の泪、そぞろ襟(えり)をつたふ」と涙を流して喜んでいる。

「金さん」が病気もせず、六か月の間に体も心も大きくなり、精神的にも大人びたように見えた。

景晋の旅が、いかに困難なものであったかを想像させると共に、幼少の「金さん」の姿がかすかに伝わってくる。

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