世界史人物伝 No.184~186
No.184 劉胤
?~329(光初12)9月
読み:りゅう・いん
姓:劉(りゅう)
名:胤(いん)
字(あざな):義孫(ぎそん)
性別:男
出身地:不明
五胡十六国時代の漢(後の前趙)の皇族。五代皇帝:劉曜の子。
No.185 劉倹
?~318(漢昌元)8月
読み:りゅう・けん
姓:劉(りゅう)
名:倹(けん)
字:義真(ぎしん)
性別:男
出身地:不明
五胡十六国時代の漢(後の前趙)の皇族。五代皇帝:劉曜の子。
No.186 元悼皇后
?~318(光初元)以前
読み:げんとうこうごう
姓:卜(ぼく)
名:不明
字:不明
諡(おくりな):元悼皇后
性別:女
出身地:不明
五胡十六国時代の漢(後の前趙)の五代皇帝:劉曜の妻。卜泰の妹。
劉胤の生涯
五代皇帝:劉曜(りゅう・よう)の次男として生まれる。
母は元悼皇后(げんとうこうごう)で、兄に劉倹(りゅう・けん)がいる。
母は父親の即位前に亡くなっており、皇帝に即位する際、皇后に追封され、元悼と諡(おくりな)されている。
弟の劉煕(りゅう・き)は異母弟である。
劉煕の母は羊献容(よう・けんよう)で、前趙の皇后となった。
劉胤は、容姿端麗で、臨機応変に物事に対処できたという。
10歳にして身長七尺五寸となり、眉や鬢は描いたようにはっきりとしていたといわれている。
第三代皇帝の昭武帝:劉聡(りゅう・そう)は、劉胤に特に目を掛けており、当時、中山王(ちゅうざんおう)であった父の劉曜に「この子には神気があり、義真(ぎしん:劉倹の字)とは比較にならない。この子を嫡男に立てるべきだ。」と進めた。
しかし、劉曜は「臣の藩国では、祭祀を守る事さえ出来れば世継ぎとして十分です。わざわざ長幼の倫を乱す必要はありません。」と反対した。
だが、劉聡は「卿の勲功は天地に並び、藩国は100城を兼ねている。まさしく当世の太師といえる存在であり、専征の任を授けられた存在でもある。五侯九伯とは専征の任を預かった者であり、卿の子孫は諸藩国と同じではない。義真では太伯の高譲の風を追う事はできない。卿の憂いを取り除くために、義真を別に一国を封じよう。」と言った。
こうして劉倹は、臨海王に封じられ、代わって劉胤が世子に立てられた。
劉胤は成長するとますます壮健になり、騎馬や射術を習得した。
318(漢昌元)8月、大将軍の靳準(きん・じゅん)が政変を起こし、劉氏は老若男女問わず全て皆殺しとなった。
ただ、劉胤だけは匈奴(きょうど)の部族である黒匿郁鞠部(こくとくいくきくぶ)に逃亡し、素性を隠して奴隷に姿を変える事で難を逃れた。
やがて靳準の乱が鎮圧されると、父の劉曜は国家を再興したが、劉胤は奴隷のまま部落に留まり、正体を名乗り出なかった。
劉曜は、既に劉胤が死んだものと思い、翌年、三男の劉煕を皇太子に立てた。
323(光初6)6月、劉曜が涼(りょう)を討ったと聞くと、劉胤は、やっと自らの出自を黒匿郁鞠部の大人(たいじん)に話した。
黒匿郁鞠部の大人はこれを聞くと驚愕し、劉胤を礼遇すると共に衣馬を提供した。
また、自らの子を差し出し、劉胤と共に長安に送り届けた。
劉曜は劉胤と再会すると大いに涙を流したという。
また、黒匿郁鞠部の大人の忠節を喜び、使持節・散騎常侍・忠義大将軍・左賢王に任じた。
劉胤は風格を有してその才知は突出していた。
また、清々しく卓然な精神を持っており、身長は八尺三寸にまで成長し、髮の長さは身長とほぼ同じであった。
射術にも長け、風雲の如き敏捷さを持っていた。
これにより劉曜は劉胤を重んじ、朝臣も同じく彼へ期待を寄せたという。
劉曜は群臣を集めると、劉煕を廃して劉胤を新たに皇太子に立てるつもりであると語り、皆に意見を求めたが、母方の伯父、卜泰(ぼく・たい)らが反対した。
劉胤も劉曜の御前で涙を流し、自らを劉煕の補佐に回してもらうよう訴えた。
劉胤は永安王に封じられ、侍中・衛大将軍・都督二宮禁衛諸軍事・開府儀同三司・録尚書事に任じられ、同じく太子太傅を兼任し、皇子と号された。
325(光初8)5月、劉胤は大司馬に任じられ、南陽王に進封し、漢陽諸郡13を以って南陽国とした。
また、単于台を渭城(いじょう)に設置し、劉胤を大単于(だいぜんう)に任じると、左右賢王以下を設けて、胡(こ)・羯(かつ)・鮮卑(せんぴ)・氐(てい)・羌(きょう)という、様々な人種の豪傑を迎えた。
327(光初10)10月、劉胤は前涼(ぜんりょう)を大敗させる武功を挙げた。
この戦果により、劉曜は河南(かなん)の地を全て支配下に入れている。
328(光初11)12月、洛陽攻略中の劉曜が、後趙(こうちょう)の石堪(せき・かん)の急襲を受け大敗した。
劉曜は石堪の兵に捕らえられ、やがて殺害された。
329(光初12)1月、劉曜が捕まった事を知った劉胤は衝撃を受け、劉煕らと共に協議し、西の秦州へ遷都することを決定。
尚書(しょうしょ)の胡勲(こ・くん)は「今、主を失ったとは言え、国家はまだ健在であり、将士の情も一つであり、離反もありませぬ。共に力を合わせ、険阻な地に拠り、抵抗するべきです。逃げるのは、その後からでも遅くはありませぬ。」と進言したが、劉胤らはこれを聞き入れず、邪魔立てしようとしたとして怒り、胡勳を斬り殺した。
そして、百官を率いると上邽(じょうけい)へと撤退した。
同年8月、劉胤らは兵数万を率いて、後趙の石生(せき・せい)がいる長安へと攻め込んだ。
同年9月、両軍が義渠(ぎきょ)で激突。
劉胤は破れ、兵5000余りを失った。
劉胤が上邽へと敗走すると、後趙軍は勝利に乗じて追撃を掛け、上邽を攻め落とした。
屍は1000里に渡って転がり、劉煕や劉胤を始めとした将王公卿校以下3000人余りが生け捕られ、皆殺しにされた。
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