親ガチャ
親ガチャという言葉が出現してしまった。
親は選べない。
親の経済状況によって、子の将来が決定付けられる。
この現実は否めない。
お金がある家に生まれた子供は、恵まれた環境の中、高等教育を受けることができる。
多くの刺激を受け、様々な体験をし、一流と呼ばれるものを知り、社会の縮図というものを体感していくことができる。
学費にも困らない。
親自身が築いてきたコネクションも大いに活きる。
裕福な家に生まれることは、多くの可能性に満ちている。
それ時点で勝利者と呼べるかもしれない。
しかし、だからと言って、親ガチャという表現は如何なものかと思う。
ひどい親も確かに存在する。
だが、多くの親は、子に愛情を注いでいる。
子供から「親ガチャに外れた」と言われたら、親は悲しむ。
子供たちも、分かってはいるが、親に文句を言うしかないのであろう。
それについては理解できる。
実際、どうすることもできないのだから・・・。
だが、よく考えてほしい。
親にもまた、親がいるという事実を・・・。
彼らもまた、親を決められずに生まれてきたという事実を・・・。
この世に、親を決めて生まれてきた者など一人もいない。
この事実に目を向けるべきである。
そもそも、この構造は、遥か昔から存在する。
戦前も、江戸時代も、奈良時代にも存在する。
何をいまさら、親ガチャなどと表現するのであろうか。
問題は、親に対して、親ガチャと表現する心にあると思う。
かつての日本人なら、親に対して、そんな表現をすることなど有り得なかった。
上述したように、誰も親を決められないと認識していたからである。
親ガチャという表現は、あまりにも自己本位な考え方であると思う。
また、かつての日本人は、親には孝行を尽くすべきと教えられていた。
孝行とは、親に従順になることではない。
親の言うことを全て聞くことでもない。
親のために何ができるかを考えることである。
場合によっては、親を叱ることも求められる。
親が人の道から外れようとしていたら、親が間違いを起こそうとしていたら、これを懸命に止めることが、子の責任なのである。
そのためには、善悪の判断、正邪の区別がつかなければならない。
では、如何にして、親を正すことができるのか?
そのために学問がある。
賢明な判断を下すことができるようになるために、人は学ぶのである。
それが本来の教育というものであり、学問ということなのである。
一般的に道徳と呼ばれる科目は、それに最も該当する科目であると思う。
今でも、道徳の授業はあるが、もう少し深掘りしたいと思う。
今の道徳の授業は「親に孝」を教えているであろうか?
差別はいけないだとか、可哀そうな子には親切にするだとか、嘘を言ってはいけないだとか、そんなことばかり教えているのではないだろうか?
これらのことも必要ではあるが、それよりも大事な、もっと根本の部分は家庭にある。
なぜなら、家庭は社会の基本単位だからである。
さて、今の学校で、父を敬えと教えているであろうか?
母を大切にせよと教えているであろうか?
もし、上記のことを教えているのなら、若い人たちが、すぐ「妊娠するようなこと」をするはずがない。
更には、子供ができたから結婚という風潮にはならないはずである。
父母を尊重することは、将来、自身が父母になった時の気構えを持つことに通じる。
子を成すことの重みを理解することにも通じる。
父母を軽視したり、友人のような関係性で接していたならば、将来、子供を成しても、責任を持って接することはできないと思う。
そればかりか、重荷に感じる者も出てくるはずである。
これが子殺しの原因であると思う。
逆に、親に服従するのが当たり前という環境で育ったならば、将来、子供を成しても、言うことを聞かない、うざったるい存在としか映らないと思う。
邪魔だと感じる者も出てくるはずである。
これも子殺しの原因であると思う。
「親に孝」を教えるということは、将来、子供が親になる時のことを考えてのことである。
時には親を叱ることも必要で、そのためには、己自身を磨かなければならないという考えは、家族の発展にもつながる。
そして、親のせいという思考には、決して辿り着かない。
「親に孝」を教えていないからこそ、子もまた、親を殺すのである。
親というものを理解していないからであり、正面から向き合うことができないからである。
向き合い方が分からない場合もあると思う。
数十年前、我が国は、古来からの考えを古臭いものとして、否定してしまった。
しかし、これらの考えは、先祖が経験から生み出した知恵である。
この考えを無視したことが、今の愚かしい親子関係を構築しているのだと思う。
親ガチャという表現は、その愚かしい関係性の最上級に位置すると思う。
数十年前の我が国は、先祖の教えを無視して、アメリカ的なものが正しいと勘違いしてしまった。
明治の頃は、あくまで技術的な面において、西洋のものを取り入れただけであった。
精神の面は、古来のやり方を遵守してきたのである。
全く、西洋の影響がなかったわけではないが、家庭という社会の基本単位にまで浸透させるようなことはしていなかった。
それが、戦後、社会の基本単位にまで浸透させてしまった。
これがそもそもの間違いなのである。
アメリカ式(西洋式と言っても良いかもしれない)は、彼らの社会において必要であるから導入されたものである。
米国式を取り入れたいのなら、社会構造そのものを米国式にしなければ通用しない。
良い部分も、悪い部分も・・・。
それを中途半端に導入した結果が、これである。
そして、もう一つの問題は、家庭環境で全てが決まってしまう、現代日本の構造にある。
我が国の政府は、教育を放棄している。
お金がない子供でも、高等教育を受けられるような制度を確立すべきである。
いわゆる奨学金である。
今でも有るじゃないかと反論が来ると思うので、もう少し掘り下げてみたい。
現在の奨学金は、奨学金ではなく借金でしかない。
卒業後、お金を返さなければならない。
本当の奨学金は、返す必要がない。
国家による投資の意味合いがあるので、せいぜい、公務員になることを前提としているくらいで、返済の必要は全くない。
これも数年間、勤めれば、自由の身となる。
と言っても、それ相応の学力がないと、奨学金の適応外となってしまうが・・・。
つまるところ、教育とは、国家のために有能な人物を育てることである。
個人の自由も大切だが、国家や社会といったものを軽視してはならない。
その基本単位である家庭(家族)は言うに及ばずである。
なぜなら、個人の自由も、表現の自由も、国家や社会によって保障されているからである。
この根本を崩してしまっては、元も子もない。
雇用方法にも問題があると思う。
新卒採用である。
新卒でなければ入社できないという方式が、必然的に良い大学でなければならないという考えを浸透させてしまった。
家庭環境が悪くとも、懸命に勉強すれば、良いだけのことなのであるが、そうさせない雰囲気が充満していることも原因であろう。
自由、平等などの概念が、それを阻害しているのも事実である。
要するに、子供たちから気力を奪っているのである。
気概というものを除去し、こういう家に生まれたから、もう終わり・・・という感覚を植え付けているとも言える。
また、それを良くないと考えて動く人も少ない。
なぜなら、個人の自由という概念のもと、自己の栄達のみを考える人々が増加しているからである。
自己責任という言葉を用い、懸命に勉強しない人を見下し、そんな人たちの思考を転換させようと努力することはない。
そればかりか、負け組、底辺とレッテルを貼り、彼らが登りつめてこないように牽制しているとも言える。
結局のところ、勝ち組と称される人々は自己の栄達のみを考え、負け組と称される人々は、これが運命と自身で勝手に判断している状況である。
誰も、この社会をより良くしようとは考えていないし、社会に貢献しようという思いもない。
個人の自由、個人の権利、これらも大切なことであるが、社会や国家が健全でなければ、それらのことは一切、保障されないことを理解すべきである。
失われた二十年は、失わせた二十年であるし、個人の権利のみを追求した結果とも言えるのではないだろうか。
そもそも、新卒採用がおこなわれるようになったのは、社員を根本から教育しようという目論見からであった。
社員は家族という認識があり、一人前に育てることが会社の責任という風潮が存在したからである。
当然、首になることなど滅多にない。
これが全て良いとは言えないが、かつての日本人は「親に孝」を学んでいたので、会社を親と見立て、子供として、兄弟として、懸命に勤めることを善としていた。
ところが「親に孝」を教えなくなったことにより、自分の栄達のみが優先される世の中になってしまった。
会社は自身の優雅な生活を維持するために存在する、という認識が生まれてきたのである。
英語に、ノブリスオブリージェという言葉がある。
人の上に立つ者には、それ相応の責任が生じるという意味である。
「親に孝」を教えられなくなった日本人は、この観念が抜け落ちてしまった。
会社は利用するものであり、贅沢な暮らしの糧としか見られないようになった。
こうなると、裕福な暮らしを守るため、新規参入者を排除する動きが発生する。
これが原因で、実力主義と言いながら、未だに新卒採用をおこなっているのである。
アメリカでは、転職の数が多い人ほど、採用されやすい傾向にある。
家庭環境に関係なく、個人の努力で、様々な職種を経験した者にこそ、実力があるはずだと見込まれるのである。
アメリカ式が良いとは言わない。
アメリカでも、良い大学に入った人の方が有利なのは事実であるし、底辺の暮らしをしている人には、相当な困難が待ち受けているのも事実である。
だが、日本のように、家庭環境が決定打になることはない。
家庭環境を原因や理由にしていないからである。
結局のところ、我が国は中途半端に西洋の考え方を取り入れてしまった。
これが諸悪の根源だと思う。
つらつら書き綴っていたら、孔子の言葉が浮かんできた。
過ぎたるは及ばざるがごとし。
中途半端が過ぎて、今の我が国は迷走しているように思える。
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