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タガがはずれた日本 ~マナー問題を中心として~

きくよしエッセイ 2003年 58回終戦記念日号 菊池嘉雄 69歳

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  ノンマナー(マナーが無い)の現状


○ 幼稚園のホールで園長が大勢の保護者相手に話をしている。椅子を使わず床にベタ座りの集会である。若い母親が多く、チラホラと父親とか祖父母の姿。アチコチで私語をしながらきいている。携帯電話の画面を見ている者もいる。中にはあくびをする者もいる。なんと「ああ疲れた」といって横になる者もいるではないか。
○ 私が校長をしていた平成6年頃でも既にガムを噛みながら校長の話をきく親が出現していた。50名程度の小規模集会だから、ひとりひとりの顔が見える距離である。それでもためらわずにクチャクチャと口を動かしながら話をきくのである。
○ 成人式でのマナーの悪さは既に大々的に報道されたのでご存知のことと思うが、日本列島は成人式が式の形態でまともに成立するところはなくなり、パーティ形式や合コン形式やゲーム形式、演芸会形式になってしまっているのである。我が市の成人式を見に行った時は儀式形式でやっていたが、単に市長などが記念品を贈呈する式であって、ものの10分とかけていなかった。あとは第二部と称してビンゴゲームであった。ビンゴゲームは人数が大勢になってもやれるゲームである。
○ 電車の中での通学生のあたりかまわぬ高声(たかごえ)は、度々、新聞の投書欄などで指摘されるが、とめようがないのが現状である。
○ 小中学校や高等学校そして大学における授業態度の悪化は広く社会的に知られ、もう話題にする人もいなくなってしまった。大学での授業中の私語、居眠り、携帯電話によるメールのやりとり、授業終了間際の化粧直しなど枚挙するのも疲れるほどのマナー悪化である。
○ 近頃は授業参観に親が大勢参加するようになった(昔は参加率が悪かった)。ところが、授業中うるさいのは子供たちではなく親たちなのである。参観中の私語がひどい。廊下などでは高声で談笑。カメラで撮りまくる親も多く、プライバシー保護から撮影自粛を呼びかける学校も出てきた程で、若い親たちのマナー感覚がおかしくなっている。
○ 実は若者だけではないのである。公民館ホールなどで開催される健康講座などの講演会には60歳代から80歳代の高齢世代が集まるが、これがまた、私語をするのである。コソコソと小声で話す控え組もいるが、耳が遠くなったのか普通声で話す者もいる。せき、くしゃみの頻発は高齢者の集まりだからしかたないとしても、なにやら幼児返り集団を見るようで、同世代としては侘びしい限りである。
○ このように若者から高齢者に至るまで全ての年齢層でマナーが悪くなっている現実がある。私は最近、幼稚園、保育所、小学校、中学校の保護者会や青少年健全育成会研修会、高齢者学級、婦人会などの講演に歩いたがマナーの悪さに出会ったことはなかった。これは、参加が任意で参加者は目的意識を持っており、マナーを持ち合わせているような人たちばかりが集まったからであろう。   

  考  察

○ 私が最も問題として取り上げたいのは「マナーが悪いのは若者だけではなく高齢者も悪い」ことである。この点から考察してみると見えてくるものがあるように思うのである。
○ 私は今69歳であるが、70歳代から80歳代の人たちの過去の生活様式を考えてみよう。この人たちは昭和、大正、明治時代を過ごした人たちである。この人たちの集会体験や集団学習の経験と言ったら何だったのか。公民館ホールなどに集まって講演をきくような機会はなかった筈である。それらしいものと言ったら、寺などに集まって坊さんの法話をきくとか、○○講などと言う地域または親族の人寄りである。大勢が集まるものと言えば学校と選挙演説会場ぐらいのものだろう。第一次大戦や第二次大戦の戦時にはそれらに関する集会もあったであろう。それらに共通することはタテ社会の中での人寄りであり集会であるということである。誰か上位にある人の話を承る場であると多くが認識していたことである。だから、そこには私語などあり得ないし姿勢を正し襟を正して臨むという暗黙に了解しているタガがあったのである。礼節尊重の社会的合意の存在と言ってもいい。
○ 第二次大戦後このタガがはずれたのである。戦後58年、それまであったマナーのたぐいをすべて壊わしてきたと言ってよい。これでもかこれでもかとマナーのたぐいを否定し壊してきた。その最たるものが「らしさの嫌悪」と「らしさ教育の否定」である。先生らしい先生、医者らしい医者、政治家らしい政治家などは、今は昔である。先生くさくない先生とか先生らしくない先生像がもてはやされ、「先生くさい」だの「医者くさい」だの「政治家くさい」だのと専門家の「におい」や「くさみ」のある人は嫌われ疑われるようになった。特にいかにも政治家らしい人は選挙で勝てなくなったことは深刻な問題なのだがそのような社会認識は無く論評もない。
○ 今の学校では「男らしさ女らしさの教育はしてはならない」とされているのだが、その大本(おおもと)は「男女共同参画社会基本法(平成11年6月23日公布)」にある。男も女もないのである。その最も見事な最近の映像は今(こん)国会における議長席詰め寄り映像である。鈴木洋子(?)議員が赤いツーピース姿で靴のまま机に上がり他議員の背中などにスカートが捲れあがるのもかまわず馬乗りなっていた。男も女もないのだということを国会で演じて全国に伝えた「お見事な映像」だった。
○ 戦後58年かけて「らしさ」をはじめとするマナーというか身の振る舞い方というか、そういうものを嫌い否定してきて、ついにここまできた、というか、来るべくして来てしまったといえるのは、青森県三沢市議会におけるネクタイ着用問題と岩手県議会における覆面着用問題である。採決の結果同数となり議長の1票で覆面着用が可決された。私は覆面着用そのものよりもこのような問題に収集をつけられなくなった日本の現状のほうこそ、しっかりと見据えなければならい問題だと思うのである。今のようにタガがない社会では議論などしても議論百出だけで終わってしまうのである。
○ この論の流れから脱線するが、覆面騒ぎを見ていて中学校で教師をしていた頃のことを思い出した。教室に奇抜な格好をしてくる生徒がいて、それを教師がとがめると「この格好が好きなんだ」「誰にも迷惑をかけていない」「きまりはおかしい」などと言い張るのだ。このテの生徒はどこにもいるもので、この年頃にはごく常識的な決まり事も気にくわなく感じたりするものである。岩手の覆面騒ぎはまるでこれとそっくりだと思った。
○ 更に脱線し論を飛躍させれば、この覆面着用騒動は劇画世代の生み出せ  るものと言えよう。劇画コミックなどをご覧になったことがあるだろうか。画面も言葉もすごく誇張されており、目先の過激さや刺激で構成されている。こうした劇画は幅広い年齢層に広く見られており、読書離れ世代の大学生も愛読している。学校の職員休憩室にも誰かが持ち込み、若い教員たちはページを繰っていた。この人たちの感性が劇画の影響を受けているとすれば、覆面議員が議場で討論する姿はオモシロくてカッコイイと感ずるであろう。その人たちが票田であれば当選するのも当然である。
○ 桶という容器はタガがあってこそ容器としての働きができる。タガが腐食し、はずれてしまえば、桶はバラバラの木片となり機能を失う。今の日本はそのタガがはずれてしまった状態と似ている。木片である国民一人一人は存在しているが、互いを支え、形をなし、水を洩らさないように存在しているかと言えばはなはだ心許ない。
○ 高齢者にさえもマナー悪化が見られるのは、悪化ではなく、もともとマナーがなかったノンマナーの状態と理解したほうがいいだろう。タテ社会の中でのマナーは心得ていても、個人中心の、自由で水平なヨコ社会の中でのマナーは最初から持ち合わせていなかつたということであろう。
○ 団塊の世代の代表みたいな浅野史郎宮城県知事は「公共機関はサービス機関であり、県民は顧客であるのだから、職員はサービス精神に徹しなければならない」と県民にも聞こえるように県下の各庁舎内で放送している。これによれば役所はサービス機関なのでそこの職員、すなわち公務員はサービスマンとなり、学校は教育サービス機関で教員もサービスマンとなる。予告されていた定期の家庭訪問で教師が訪問したら「きょうは都合が悪いのでこの次にしてください」と集金屋を断るように断ったり、校長や園長の話のさなか、ガムを噛む者や、私語をする者や、あくびをする者が出てくるのも、こうしたサービンマン視と同根であり関連性があるように思えてならない。
○ 橋本大二郎高知県知事も団塊の世代で、学生運動もしたそうだが、成人式場で帰れコールを浴びせられ「お前らこそ帰れ」と怒鳴ってしまった。大学紛争で教授たちをやっつけたとすれば、因果応報かもしれない。
○ 民主主義という語を終戦直後の58年前に聞き、公僕という言葉を教員になってから昭和40年代頃に聞いた時は「なるほど」と思ったが、今になってみると、この二つの言葉は民が主(あるじ)という上級概念と公務員が僕(しもべ)という下級概念が含まれる言葉なので、そのような言葉やもの言いを指導層が繰り返しているうち、倒錯した思いこみをする人たちが出現してしまったように思われるのである。
○ 人生や社会の大先輩である高齢者でさえがノンマナーなのだから、四十、五十の大人は当然だし、その子供たちに社会のルールやマナーを説くことは容易でないのも当然である。タガをはずしただけで、新しいタガがないのだから若者は漂流することになるのである。
○ 漂流するのは若者だけではない。子育て中の親たちも漂流しているのである。私の説く「現代の親のつとめ7カ条」のひとつに「しつけ、道徳、倫理、ルール、マナーなどを教え育ててやる」があるのだが、これを今の親につとめと説くにはつらいものがある。具体的にどういうことを教えるのか、身の回りにも社会にもお手本がないのだから親たちはイメージがつかめないのだ。とりあえず自分で定めてあたるしかない。それは例えれば水平線しか見えない大海で波に揉まれながら小舟を漕ぐような当てのなさであろう。つまりタガがなく一片の木片として漂流しているのである。
○ タガを強制枠のように捉えて窮屈だとか、個人の尊厳を損ねるあってはならないもののように言う向きもあるが、なんのタガもない自由は実は個人としてもやりにくく、住みにくい社会や世間にもなるのである。……69年間生きてきて、戦前戦後の社会を経験してきて、近頃の社会状況を見て、このように感じ、考え、思う次第である。桶を比喩に用いたが桶も少なくなり、タガがはずれた桶など目にすることもない昨今である。したがって桶の比喩は若い人には通じないだろう。嗚呼。
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