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日本のアメリカ化 ~続「天に代わりて」~    

きくよしエッセイ 2002年の文化の日を記念して 菊池嘉雄 67歳

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 昨年、「天に代わりて」で指摘したことが、一年たった今、かなりそのとおりになってきたようである。なかでもアメリカの武力を背景にした「正義の番人振り」や「自由と平等の欺まん性」に対する警戒感と嫌悪感の存在はかなり表だってきたように思う。アラブ諸国での現地取材の報道の中にもそれは垣間見ることができるし、アメリカ批判の本が続々と出版され始めたことにもそれは表れている。わが国内の権威ある大手雑誌「文芸春秋」でも、今年の十月号で「アメリカ不審総力特集」を組んだ。世界中がアメリカに従いながらアメリカを疑っているのである。そのことを「アメリカ人が知らないことが最大の問題である」と指摘する識者もいる。ならばアメリカは「世界の裸の王様」になり始めていることになる。ところが、アメリカ国内で、元政府要人とか学者とかマスコミ人などがアメリカ批判や提言の本を出し、アメリカ政府は、米国内外の専門家を集めて「なんでアメリカが嫌われるのかについての研究」を始めたという。さすがはアメリカである。現実重視と、度量の大きさと、柔軟性がアメリカの良さである。しかしながら、この度の選挙ではブッシュ側の大勝利となり、アメリカ世論は「嫌われるアメリカを気にしない方向」へ傾斜するようであるから、やはり「裸の王国」へ傾斜する可能性は大きい。アメリカガイラクを攻撃することに反対していた国々もしぶしぶ賛成側に回り、国連はアメリカ支持に全会一致となった。「結局は力の勝利」の感はいなめない。飛躍するが、今の日本の若者は倫理とかイデオロギーよりも力の論理に惹かれる傾向にあると言われるが、それは、こうした現実をみれば無理もないだろう。更に飛躍するが、弱小国北朝鮮は強大な力に対抗すべく現代版忍者組織による工作員や工作船を使っていたのであろうが、すぐにバレるようなやり方など弱小国らしいお粗末さであった。 これに対してアメリカの諜報組織や活動はもっともっとすごいことをやっていると推察したほうがいいだろう。
 今年の正月、雑誌「諸君」を読んでいたら瞠目する記事があった。アメリカによる日本の戦後処理に関する記事なのだが、こう書いてあったのだ。「日本の敗戦が見えてきた時期、ルーズベルトはロナルド・キャンベル英国公使をニューヨーク州ハイドパークにある私邸に招き、〈日本人は四つの島に閉じ込め、そのまま衰亡させる〉(英首相府公文書)と述べている」・・・。公文書にあるというのだからほんとうなのだろう。ルーズベルトはその後死亡するので遺言となつたわけだが、これが戦後処理の基本となったようだ。日本人を四つの島に閉じこめるとは世界中にいる日本人を強制的に日本に戻すことで、海外に出兵した兵隊を戻すことは当然だが、兵隊以外の日本人もすべて戻すことであり、衰亡させるということは、工業を禁じて農業国とし、地主などの財閥を解体し資本力を弱め、自然消滅させることであった。その後「閉じ込めるだけでは不十分である」としてGHQ(連合国軍総司令部)による戦後工作が展開されたが、その工作の中で私が瞠目したのは、新聞、放送等の報道機関ばかりではなく、映画や音楽などの娯楽メディアに対する工作があったことである。これを知ったとき私は目から鱗が落ちた。「そうか、そうか、そうだったのか」「だからフォークソングであり、西部劇映画だったんだ」「外国文化だと思っていたものは殆どがアメリカ文化だったんだ」「よく欧米は云々などと言ってきたけど、欧をとってアメリカは云々というべきだったんだ」と目から鱗が落ちたのである。
 昭和20年に終戦となり、少国民5年生からもとの小学生に戻った私たちは、新制中学生となり、高校、大学と進むうち、新しい音楽や映画やいろんな新しい外国の用具や用品に取り囲まれるようになり、そうした中で青春を過ごしたので、それらの影響を強く受けた。外国に対する憧れ、外国に対する尊敬の念、外国製品への渇望、外国情報への関心などで、それらに触れ、浸り、楽しみ、享受して育ち、外国のことが分かったつもりで今日まで来た。ところが、その外国とはアメリカだけだったことに気がついたのである。終戦から57年間、見てきたつもりの外国とはアメリカのことだった・・・そんな思いがするのである。その視点で振り返ってみると思い当たるものがいっぱいある。
 戦後、若者の心を捉えた「うたごえ」というものがあったが、そのスタートはロシア民謡などのロシア系の歌が中心だった。ロシア(旧ソ連)からの引揚者たちがアコーディオンを弾きながら歌う「ともしび」などの歌が燎原の火のごとく日本全国にひろまった。それに伴ってアコーディオンという楽器が大衆的なものとなりすごく売れたという。「うたごえ喫茶」などという店が全国に出来て若者がたむろした。全国各大学にも「うたごえサークル」などができて、学生たちがスクラムを組んでそれらの歌をうたった。この動きは実は「うたごえ運動」といい、共産主義者がしかけたものだったのであるが、そこへ乗り込んできたのがアメリカである。レッドパージ(赤狩り)という共産主義者追放令を日本に断行させる一方で、「レッドリバーザバリー(赤い川の谷間)」などのアメリカ民謡をギター伴奏できかせ始めた。日本の若者はこんどはこちらに飛びついた。私も仲間たちと斉唱して酔いしれたものである。たちまちにして、うたごえは廃れ、カントリーソングやフォークソングなどアメリカもの一色となり、楽器屋では大量のギターが販売されることになった。それ以後エレキつまり電気によるギターや鍵盤楽器そしてドラムセットというアメリカ仕立てのグループ音楽が主流となり、ロック音楽からニューミュージック、和製ポップスとなって現在に至った。若者音楽は完全にアメリカによって市場化されアメリカ文化と同質の音楽市場となったのである。いかにも諸外国の音楽を知っているように思っていたのだが、せいぜい、フランスのシャンソン、イタリアのカンツォーネ、アルゼンチンのタンゴなどを少々きいたことがあるだけで、アメリカ音楽の比ではない。
 映画も同様である。私が学生の頃、よく見た外国映画といえばアメリカ西部劇である。アパッチ族をアメリカ騎兵隊がやっつける映画などは、今にして思えばアメリカ先住民をアメリカガ侵略していく様子の娯楽仕立てを喜んで見ていたわけで、わが東北の先住民である蝦夷を坂上田村麻呂らが侵略していく様子やアイヌ民族を本州民族が駆逐していく様子を娯楽映画にして見ていたようなものである。フランスのギャンギャバンの映画やイタリアのソフィアローレンの映画などもあって、それらは深い内容のものだったが、量的にはアメリカ映画の比ではない。戦後出来た日活映画会社は西部劇をまねして小林旭や我が白石高校演劇部で私と共演したことのある宍戸錠などを主な役者にして和製西部劇を続々と作った。それらの上映館は連日満員御礼の活況であった。
 映画や音楽だけではない。日用品や衣料品、家具類、化粧品、嗜好品などもアメリカ製品が市場を占め、スーパーやコンビニなどの販売方法もアメリカからの導入である。パイパス道路沿いに商店が建ち並んだ風景は昔見た西部劇の町並みそっくりである。人々はこの新天地に群れ集い買い物をするが、みんな見知らぬ者どうしで声をかけ合うこともない。人は大勢いるが人間関係が無いので、気を使うこともなく自由で気楽である。その心象は開拓時代のアメリカの商店街の心象と似ているのではないか。こうした商店街の進出により、従来の地域小売業は衰退し、併行して地域住民の連帯性は消滅してしまった。気の毒なのは農業である。大量のアメリカ農産物が国内の農産物を駆逐し、アメリカ並の農作業の機械化ということで農機具購入に借金をし、借金稼ぎに出稼ぎに出るという事態に追い込まれてしまった。加えてアメリカ並みの外食産業が入り込み、外食する日本人が増え、和食離れが進み、米が過剰となり、美田は休耕田となり、国内農業は衰退の極に達してしまった。
 モノだけではない。心のありようも、家族形態もアメリカ化してしまつた。今、青少年問題が緊急の課題として騒がれ、その対策といえばカウンセラーの導入である。青少年問題対策ばかりか、ごく普通の学校にも、病院にも、福祉施設にも、警察にさえもカウンセラー配置である。心理学といえばアメリカ心理学でカウンセラー制度もアメリカの模倣である。「家族の崩壊」「家族の病理」なども盛んに取りざたされるようになってきて、その分析や対策論なども殆どがアメリカ学会からの引用である。これは、アメリカ文化によって救われているのではなく、アメリカによってカウンセラーなどが必要とされる社会に市場化されたと見ると事態が見えてくるのである。
 よく「日本人には顔がない」と言われてきた。それは主として自己主張の無さなど内面的なことを指していたのだが、最近は外面的にも日本人かどうか分からない人が増えてきた。体躯や顔立ちが変わってきたのだが、「茶髪」の流行が加わっていっそう紛らわしくなった。ブラウンあり、ブロンドあり、グレーあり、中にはブルーやイエローなどもある。サッカーのテレビ中継を見ていると、髪の色では日本チームと外人チームと区別がつかない。スポーツ界や芸能界の人ばかりではなく、ごく普通の人がカラー染髪をするようになってしまった。アメリカの街頭風景にはヨーロッパ系、アジア系、アフリカ系など様々な民族の髪の色が混在しているが、日本もそうなりつつあるかのようである。まるで「アメリカのようになりたい」かのようだ。染髪剤による副作用など考えもせず、わざわざ黒髪をカラーに染め上げる心の底には、本人も意識していない脱日本人願望やアメリカ人への変身願望があるのかもしれない。
 最近の日本のテレビ番組の低俗化はひどいものがあるが、実はこれはアメリカとそっくりで、アメリカはもっとひどいと映画評論家の松山智浩が雑誌「文芸春秋」十月号の中で伝えている。今の日本は、放送業界にしても、商業界にしても、絶えずアメリカの動向を見ていて、アチラで流行したものをすぐ取り入れたほうが勝ち残る構造になっている。
 日本は今やGNP第二位の経済大国と言われているが、それは戦後一貫してアメリカと連動してきた結果と言えるだろう。それは「アメリカガくしゃみをすると日本が風邪をひく」と揶揄されるような経済繁栄であるわけだが、ある識者は「日本は星条旗の星のひとつになったようなものだ」と言った。星条旗の星は州を表しており、州には自治権が与えられ州としての独立性を保持しながらアメリカ国家の傘下で安定しているのだから、今の日本は州のひとつのようなものだというわけである。言い得ているように思う。小泉総理が北朝鮮と交渉するに当たってはアメリカ大統領に連絡なしにはやれないことにもそれは表れている。
 さて、元少国民だった私たちが経験した歌や映画など娯楽文化の変遷や政治経済の変遷、そして人々の信条や意識の変遷などは、自然に変わったものと私は思ってきた。が、それは自然に変わったものなどではなく、アメリカの意図による変遷だったのである。戦後当初からアメリカには日本をアメリカ化する目論見があり、そのとおりになったのである。
 「四つの島に閉じこめて衰亡させる」ということでは、衰亡などはしていないじゃないか?。すっかり工業国となり、ますます繁栄してるじゃないか!との見方があろう。戦後、アメリカガアジアに睨みを利かせるには日本を軍事基地にしなければならず、その為には日本の工業力が低いことは不便なので、工業化を解禁し推進する方向に変わったわけで、朝鮮動乱の際は大量の資金が日本に入り込み、資本力を持った日本はそれ以後、一気に工業国へ駆け上がってしまって今日の繁栄となったのである。そのお陰で確かに日本領土で日本人として私たちは暮らしてはいる。しかし、その意識が日本人としての民族意識が無く、思考の仕方や生活習慣などがアメリカ化してしまえばアメリカ人である。私たちは何時の間にか姿形は日本人だが内実はアメリカ人になっているのではあるまいか・・・?。このような思いは私だけでないことが分かったのは昨年である。NHKの朝の連続テレビ小説「さくら」はアメリカ人と日本人の違いを描いていた。NHKの朝ドラは明確なテーマを持って女性像を描くのが番組の基本姿勢のように受け取れるのだが、その番組が日本人とアメリカ人の相違にこだわるドラマを作った。それはすなわち日本人のアメリカ化を意識したからであろう。ドラマはまだまだアメリカ化されていない日本人を描いてはいたが。そして先日、新聞に変わった広告が載った。外人女性が着物を着て三つ指をついている写真が大きく掲載され、その脇に「ニッポン人には日本が足りない。まず日本人が日本を知ること。それが国際交流の第一歩です」とあった。掲載者は公共広告機構である。公共広告機構とは広告を通じて住み良い社会作りに貢献しようと全国の企業が集まった非営利団体であるが、これからの国際社会を乗り切るには今の日本の状態ではよくないと考えてのことであろう。また、昭和5年生まれで外交官として長いこと諸外国を渡り歩き、実際に外交交渉に当たったことのある岡崎久彦は次のように言っている。「相手が人類のためとか環境のためなどというとき、その場では合意しても、それを国へ戻ってから実行できるアテは全然ありません。しかし、国家のために合意した話は、国民を説得することができます。こちらが愛国者で向こうも愛国者であった場合だけ、真の外交が成立するのです」。
 よく「欧米は云々」という言い方を見聞きし、私も使ってきたが、欧と米はひとつではなく、かなり違っていたのだとはじめて気がついた。私が国際音痴であったらから気がつかなかったのだが、いかに国際音痴でも気がつくような事態となってきた。EU(欧州連合)やNATO(北大西洋条約機構)などとアメリカとの間に深まった溝である。欧州経済機構とアメリカ経済機構そして欧州軍事同盟とアメリカ軍事力との間の亀裂と溝が報道され始めた。今のところ、経済力も軍事力もアメリカのほうが大きいので、アメリカに押しまくられ、アメリカに協力する格好のようである。それをいいことにアメリカは欧州をもアメリカ化しようとしているように見える。昔より国際世論を無視しにくくなってきたというのに、国連さえも無視し単独行動をとろうとするアメリカは「アメリカ主義こそ正義なのだ」と考えているらしい。ブッシュの演説をきいているとそう聞こえる。アメリカこそが正義であり善なのだと。ブッシュは言う、「そこの国の人々を解放し自由を与えなければならない」と。いかにも自由こそ最高の価値でアメリカはその自由を保証してやる国だと思わせようとしている。しかし、日本の戦後処理に当たったアメリカは言論をいちいちチェックし、統制したそうである。決して無条件に自由を保証したのではなく、アメリカに都合のいい自由だけを保証したのである。ブッシュの演説の表面だけを聞くわけにはいかないではないか。
 新世紀を迎えても民族紛争は収まる様子はなくむしろ激化しているし、内政干渉という言葉が死語になるほど国家の自主独立は希薄化へ向かっている。「だから地球市民になればいいのよ菊池さん」と私の朋友は言う。が、今、全世界を束ねることのできる普遍的な価値を持てないことが世界各国の共通課題であり深刻な悩みである。何を信じ何を手がかりに民族の共存を図ればいいのか、政治家も思想家も誰もが探しあぐねている。が、ひとつだけ手がかりになるのではないかと思われることがある。地球市民社会を作り維持するにはアメリカ社会のあり方が手がかりになるかもしれないと思われるのだ。ご存知の通りアメリカは世界の殆どのすべての国の出身者で構成される多人種国家である。肌の色も、生活習慣も、宗教も、考え方も異なる人々を受け入れ共存しようと努力してきた国である。言い争いながらも最後は相手の尊厳を認め、主張を聞き、妥協点を探そうとする。可能な限り互いの自由を認めなければ国が成立しなかった。世界のあちこちから人々が流入し、歴史も伝統も持たない新国家を作り上げてきて、今、世界最大の国家となった。世界が地球市民社会としてひとつになるということは、肌の色も、宗教も、価値観も、習慣も異なる世界の民族が共存することであるから、それはアメリカ社会を世界に広げるようなものかも知れない。そうだとするとアメリカのあり方がこれからの普遍的なあり方かもしれない。そして日本人は民族意識が弱く、かつ、宗教的には白紙状態なのでそのような社会では最も適応力を発揮するかもしれないのである。
 しかし現状は、国家の自主独立が薄まり、国家間の垣根が低くなり、人の往来が容易になった分だけ治安は悪化し、うっかり外国旅行もできなくなった。いつテロや犯罪に巻き込まれるか分からない。国家と国家が厳然としてあり、国家の威信にかけて犯罪は許さないという国家に対する信頼感があればこその外国旅行であったのだが、それがアテにならなくなりつつある。全世界が地球市民になれればいいが、そこに至る過程こそが恐ろしい。アメリカが「世界の番人」たり得たとしても、世界の隅々までの治安は保証しきれないだろうし、強大にならざるを得ない軍事費で破産し崩壊することもあり得るわけで、それを防ごうとするアメリカは同盟国日本にも軍事費負担や徴兵を課してくることもあり得るわけで、そのとき日本は拒否できないだろう。その近未来は我が子供たちや孫の時代である。ほんとにどうなるのだろうか・・・・? 
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