『ヒロシマ・ロケーション・ハンティング』の裏面の文章

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2023年3月。広島に一人遊びに行くことにする。神田日勝展をみに尾道へ行ったことがあり、その時ついで広島市にも行ったが現代美術館しか見れなかった。
僕はずっと原爆ドームと平和記念公園に行ってみたかった。金沢の自宅から自家用車で早朝出発した。片道約七時間弱かかる。

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 運転BGMに李晶玉と田中功起のトーク。李氏は在日コリアン三世のアーティスト。丸木原爆の図美術館での個展では原爆ドームをモチーフにしている。在日コリアンという存在をはじめてしっかり認識したのは中学か高校の時にみた映画『GO』だった。在日と日本人のラブストーリー。窪塚洋介が好きで観ただけだったけど、以来在日コリアンの人たちについて薄ら考えるようになった。  

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平和記念公園では韓国人原爆犠牲者慰霊碑を見たいと思っていた。金沢市野田山墓地の一角にある尹奉吉義士殉国記念碑と同じデザインだと気づいたからだ。亀の台座。「亀趺」という。粟津潔も好んだが、亀は神秘的だと思う。

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正午、京都に到着。京セラ美術館に立ち寄る。八幡亜樹の個展「ベシュバルマクと呼ばないで//2022」をみる。手食文化についてのリサーチとドキュメント。10分45分の映像二つとテキストによるインスタレーション。会話、ポエム、ラップ。字幕のない映像。手元のハンドアウトが頼りだ。字幕を読む時映像を見ることはできない。
どこかに立ち入る時「映画を撮る為」と言うのが一番手っ取り早い。だから映画を撮るのだ。とある映画監督が言ってたのを思い出す。

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美術館を出る。ウトロ地区にも行ってみたかったが京都を後にする。ウトロ平和祈念館.。在日コリアンの歴史について学べる施設がある事をこの時は知らなかった。Googleマップで次の休憩場所を探す。今日中に広島に到着する気はなかった。兵庫にある「戦没した船と海員の資料館」は15時半で閉館。間に合いそうにない。「竹中大工道具館」でイサム・ノグチの展覧会を見に行くことにする。

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日系アメリカ人のイサム・ノグチ。高校三年間を札幌で過ごしたのでノグチは実は最も身近な芸術家だったのかも知れない。
大通公園の彫刻兼滑り台『ブラック・スライド・マントラ』。郊外にはノグチが設計した『モエレ沼公園』。平和記念公園に設置する予定だった慰霊碑をアメリカ人であるという理由で却下されたノグチ。日本とアメリカ。両方のルーツを持つノグチが慰霊碑をデザインする事は大きな意味があったと僕は思う。

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高速を降りる。トンネルに入りGPSが途切れた事で道に迷う。ノグチ・イサム展も断念。兵庫県美に行くことにする。ゴッホの絵を映像化した「没入型展覧会」を後学の為に観るつもりだったが、特別展の恐竜の絵画展に変更。既に死んでいる物を生き生きとさせたい欲望が人にはあるのかもしれない。

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誰も実際には目にした事のない恐竜たちの姿を描く。美術作品というよりは正に図鑑。サイエンスイラストレーション。躍動する恐竜たちをみて戦争記録画を思い出した。国威発揚のための戦争画も現地の写真を資料に、実際に見てはいない世界を描いた。空想画だ。

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恐竜図鑑展には昨年訪れたばかりの福井恐竜博物館所蔵の絵も多く出品されていた。多くの骨格標本は「複製」だ。オリジナルと精巧なコピー。恐竜の姿に想いを馳せる上で、本物とそうでない事にあまり違いはなかった。

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夜遅く倉敷のホテルに到着。前回岡山に来たのは2016年の岡山芸術交流を観に来た時だった。日本最初の西洋美術中心の私立美術館「大原美術館」へはいつか行ってみたいと思っていた。画家児島虎次郎の死後、氏を記念して開館した美術館。が、今回は難しそうだ。コンビニで買ったノルウェーサーモンの切り落としで晩酌した。広島まで車であと2時間。

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8時過ぎに倉敷を出発。サブスクで劇場ぶり2回目となる『ドライブ・マイカー』を流しながら運転。現実とシンクロさせる。劇中に出てくる美しいゴミ処理場は、金沢の建築家谷口吉生の設計。豊田市美術館もMoMA新館も彼が手がけた。まずはこの施設に行くことにした。

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ゴミ処理場は休日だったのか、稼働している様子は見れなかったが、まるで美術館の様に美しいゴミ処理場。建築もまた表現だ。通りを抜けると穏やかな瀬戸内海に出る。釣り人や花見を楽しむ客の姿。ゴミ施設がレジャー空間に。映画と同じ場所に立つ。タバコを吸っていた場所だ。映画の終盤、ドライバーは犬と共に韓国に移住している。マスク姿のドライバー。映画の中でも感染症が拡大している。現実とのリンク。

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昼。勧められていた汁なし坦々麺を食べてから平和記念公園へ歩いて向かう。途中大きなオブジェが目についた。『祈りの手』という抽象的巨大彫像。広島市医師会原爆殉職碑。原爆の投下時、医療従事者は疎開が禁じられ救護活動が義務付けられていた。後に放射線障害で亡くなった人たちも多くいた。戦死は殉職の一種だ。祈りの手は原爆ドームに向けて建てられている。

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平和記念公園は本川と元安川、二つの川に挟まれている。川にはイサム・ノグチが設計した平和大橋と西平和大橋がかかる。橋にはそれぞれに生(復興)と死を意味する「つくる」「ゆく」という名が与えられている。橋を渡りぼくは公園に入る。

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平和記念公園は公園をイメージする時に思い描く最もポピュラーな風景だった。原爆ドームを極北に、慰霊碑、資料館、噴水と一直線に並んでいる。シンメトリーで遮るものは何も無い。この事も映画で初めて知った。公園を設計したのは丹下健三。故郷の稚内市の都市計画にも関わっている。

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公園の最南に位置する噴水。さらに南に進むと花で象られたG7 HIROSHIMAの文字。主要国首脳会議を目前に控えているからだ。
そのすぐ近くには、子供を抱える女性のブロンズ像。北海道の彫刻家本郷新の「嵐の中の母子像」。核兵器廃絶への限りない努力を呼びかけることを目的に建立されている。本郷新は僕の高校の先輩であり、地元の稚内公園には樺太で亡くなった日本人のための慰霊碑「氷雪の門」が設置されている。全国に彼のモニュメントがある。「世界各地に散っている」というのが絵画や彫刻の一つの魅力だと思う。

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平和記念資料館に入る。多くの外国人観光客が列を作っている。欧米人の割合が多い気がする。エントランスには何故か平山郁夫のタイル絵が飾られていた。キャプションを読んで彼も中学生の時に被曝していた事実を初めて知る。
美術展では借りることはしない「音声ガイド」を借りてみることにした。エレベーターを上がるとまず目に入るのは原爆投下前の広島の様子。街の風景。他愛のない学校生活が壁一面プリントされている。部屋を進むと一転して、一面瓦礫になった市街地のパノラマ写真。風景写真ではなく、写真でできた風景が広がる。

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展示室に入るとまずサークル状の市街地模型が目に入る。2019年にリニューアルされる前は、赤い球体が館内に吊るされ爆発を示すジオラマがあったと聞く。現在は街の模型が円形のスクリーンの役割を果たし、原爆が投下され炸裂する様子がプロジェクションマッピングされている。インスタレーションからメディアアートに切り替わったと言えるのかもしれない。壁面には負傷者のたちの写真と被曝経験者が思い出して描いた絵が並び、煌々と光っている。
美術作家が展覧会のインストールに趣向を凝らすように、あらゆる展示技術が総動員され原爆投下の悲惨さを訴えてくる。

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黒い展示台には建物疎開の為に屋外に駆り出されていた、子供達のボロボロになった衣類や所持品が並ぶ。
生前の姿、被爆者の声、大量の遺品、オーディオガイドから流れる補足情報。涙が出た。原爆投下の悲惨さだけがクローズアップされ、なぜそこに至ったのかの経緯が抜けている、という指摘もあると聞く。投下後の暮らし。核兵器の危険性。復興と保存活動とパネル展示は延々と続く。4時間以上資料館にいても足りなかった。資料館を一周しミュージアムショップで丸木位里の母スマの被曝経験を描いた本を買った。絵と字による映像表現。初めて広島原爆投下に触れたのは小学生の時に図書館で読んだ漫画「はだしのゲン」だった事を思い出す。また改めて読もうと思う。

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資料館を出る。昨年オープンしたばかりの「被爆遺構展示館」への案内が目に入る。平和記念公園の地下には旧中島地区の被爆遺構が眠っている。焼けて炭化した畳。当時の道路を覗き込む事ができる。発掘作業時にはしゃもじや煉瓦が発掘された。
原爆で消失した家屋の多くは爆炎で焼けたのではなく、爆風の風圧で潰れたと資料館で知った。
潰れて更地になった町は、今静かで美しい公園になっている。ただの花見の注意書きさえも長閑に感じられる。公園はそこに暮らしてない人にも足を運ばせる力がある。

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国立広島原爆死没者追悼平和祈念館にいく。これも丹下健三の建築だ。広大な死没者追悼空間の壁面は、死没者と同じ数の14万枚のタイルでできている。それぞれの方角に当時の町名が刻まれている。壁に刻まれた町の名前。今はもう無い町の名前。ニューヨークでみたワールドトレードセンター跡地。「グラウンドゼロ」のプレートに刻まれた名前のリストや、ドイツ旅行のベルリンで偶然みた「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」を思い出さずにはいられなかった。慰霊の場はなぜ幾何学的なんだろう?
ここには原子爆弾で亡くなった人々の顔と名前もデジタルアーカイブされている。高校生の時に修学旅行で訪れた沖縄の壕と沖縄戦の資料館。靖国の遊就館。雪中行軍資料館。これまでも何度か目にした死者のリストを思い出す。記念と祈念。

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閉館時間になり祈念館を出る。また明日ゆっくり来る事にする。日が暮れてきたのでもう一つの目的だった原爆ドームを見に行く。川沿いは多くの花見客で賑わっていた。初めてみた原爆ドーム。太陽の塔を初めてみた時と似た感情が溢れた。メディア越しに繰り返しみてきたイメージと、現実のスケール感とのギャップ。チェコの建築家ヤン・レツンによって建設されたこの建造物は、衝撃波が真上から来たことや建築の構造的特徴などが重なり、爆心地付近で唯一残る建築物になった。
 
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コロナウィルスによる海外渡航規制が徐々に暖和しつつあり、夥しい人数の外国人旅行客がドームをバックに記念写真を撮っていた。不思議と不謹慎には感じなかった。
一時期は保存派と取り壊し派と
で激しく対立した原爆ドームは、今や世界でも屈伸のダークツーリズムスポットなのだと感じる。原爆ドームの存在が先ほど資料館で見聞きした知識に立体感を与えてくれる。もし原爆ドームが取り壊され石碑の一つがポンっと置かれているだけだったのなら、その土地で起こった出来事は即座に風化するのだろう。

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石巻の震災遺構、門脇小学校と大川小学校を見た時にも同じ事を思った。遺構は人は忘れてしまうという事が前提として存在している。
「忘れない」ではなく「思い出せる」(©︎大山顕)ことが大事だと思う。ゼルダの冒険ブレス・オブ・ザ・ワイルドの「ウツシエ」はゲーム空間の光るサークルに入ると主人公の失われた記憶が蘇る(ムービーが始まる)仕様になっている。記憶は人ではなく土地に物に保存されているのだと思う。
あとで思い出す為にぼくは写真を撮る。写真が自分への手土産だ。

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広島初日は最後に「平和の灯」を見てホテルに帰った。この灯火は「反核と恒久平和実現まで燃やし続けられている」らしい。原爆の火は福岡県に運ばれ、守られ今も燃え続けているが、この灯火は原爆の火ではないようだ。オリンピックに代表される採火と聖火リレー。火の運搬と保管。
火には死や破壊のイメージも、平和と祈りのイメージもある。不思議な存在だと思う。人間は火を扱える唯一の動物なんだっけ。
晩御飯に広島の牡蠣を食べた。生食で食べたかったが、生食の提供は昨日で終わっていた。

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翌朝、広島二日目。リニューアルを終えたばかりの現代美術館にも行きたかったが、「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」を確認すべく、再び平和記念公園へ向かう。朝食はロイヤルホストだった。
歩いている途中「ひろしま美術館」に偶然エンカウントする。開館45周年記念でピカソ展をやっていた。予定にはなかったが、自分の中で密かなピカソブームが到来していたので見る事にした。高校の美術の教科書で初めて知ったゲルニカ。日本の戦争記録画とはまた異なる戦争の惨状を描いた絵。
スペインに行き、いつか必ず実見したい絵画の一つだ。

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最も印象に残った絵は『横たわる女』(1946年、アサヒビール大山崎山荘美術館蔵)だった。戦後の翌年に描かれた臥婦像。灰色がかった背景とは対照的な、気の抜けたフォルムとボーリング玉のような顔。
ベッドでない硬そうな台の上に寝そべりポーズを取る女性は、手術台に乗せられているようにも、展示物のようにも見える。
ピカソ展を見終えて地下のコレクション展に向かう。泰西名画の数々。日本近代洋画も充実している。めっちゃ良いコレクションを持っている美術館だ。

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洋画セクションに入るとすぐに裸婦の作品が異様に多いと気づく。岡田三郎助、満谷国四郎、鹿子木孟郎、安井曽太郎、梅原龍三郎、林武、寺内萬治郎、中村研一。全てが裸婦がモデルだった。
会田誠と椹木野衣による戦争画についての対談本の中で、戦争記録画を積極的に描いていた洋画家は、戦後は一転してまるで癒しを求めるように里山の風景や、茅葺き屋根や、女性の肉体などを描くようになった。という指摘を思い出した。制作年が戦前の作品も多くあるので一概には言えないけど、コレクション時期が戦後だったならば、美術館側にそういう意識が働いていたと言えなくもなさそうだ。

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ひろしま美術館から平和記念公園へ向かう為に、HIROSHIMA GATE PARKという広場を突っ切る。どうやら3日前にオープンしたばかりの新しい施設で、元々この場所は広島カープの本拠地として半世紀も愛された広島市民球場だった場所らしい。僕は野球に全然詳しくなく観戦する習慣もないが、父が高校球児だった野球好きでよく家のテレビには野球中継が流れていた。僕自身も通っていた高校が野球強豪校だったので、昔から馴染み深いスポーツだった。平和記念資料館の東館2階の常設展示、「広島の歩み」でも広島カープの成り立ちについてふれられいた。
野球は何故アメリカと日本で盛んなのだろうか。サッカーやバスケよりもナショナリズムっぽい雰囲気はどことなく強い感じがする。何なんだろう。

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GATE PARKからは折り鶴が壁のイメージが大きく掲げられたビルが見えた。おりづるタワーという名の広島の街を一望できる最近できた観光スポットだ。千羽鶴などをはじめ、回復、復興、平和の象徴として鶴がフィーチャーされる様になったのは、2歳の時に被爆し10年後白血病で亡くなった佐々木禎子さんのエピソードが由来になっている。
平和記念公園にある「原爆の子の像」は、折り鶴を掲げる少女像が台座の頂上に立っているデザインだ。この像には年間約一千万羽、重さにして約10トンもの折り鶴が捧げられている。
鶴と同じくらい平和の象徴である鳩は、1949年の国際平和会議のポスターにピカソが鳩を描いた事がきっかけと言われている。平和というイメージを背負う鶴と鳩。

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韓国人原爆犠牲者慰霊碑に着いたのは正午だった。小春日和で気持ちがよく、辺りには桜が咲いていた。公園のベンチに腰掛けて亀をみる。「亀趺」と呼ばれる亀の形をした石碑台は、金沢市にある「尹奉吉義士殉国記念碑」と限りなく同じデザインだ。鬱蒼とした山の中に在る金沢のものとは違い、平和記念公園の亀は気持ちよさそうだ。首には千羽鶴がかけられている。「亀趺」の起源は中国の霊獣にあるらしく、特別韓国由来という事ではないようだ。このデザインには「永く倒れない事」が祈願されている。
元々は公園外にあったこの慰霊碑は「民族差別ではないか」という声を受け、平成10年に現在の位置に移設された。動かされた石碑。

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公園を散策すると実に多くの彫刻や記念碑が設置されている事がわかる。あっちにもこっちにも何かある。まるでミュンスター彫刻プロジェクトのようだ。これらの石碑群の中で、公園の中央に位置するのが「原爆死没者慰霊碑」だ。公園を設計した丹下健三は、反対意見によって却下されてしまったイサム・ノグチの慰霊碑のデザインを引き継ぎ、このHPシェル構造の原爆死没者慰霊碑を作った。世界中で見られるこの形は何も象徴しない。この形はどこの国のものでもない。それが重要だった。

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原爆死没者慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という言葉が刻まれている。この「過ち」の主語は誰なのか、当初から議論の的になってきたそうだ。そのことで度々碑石に破壊行為が行われてきた。碑文の作者である広島大学の雑賀忠義教授は、碑文を「Let all the souls here rest in peace ; For we shall not repeat the evil.」と翻訳している。We。
慰霊碑の中央、石碑の後方にある石室には原爆死没者名簿が奉納されている。氏名、死亡年月日、年齢が記載された33万9227名分(2023年8月6日現在)のリスト。石碑も墓標も美術館もアーカイブのための箱だ。名簿は毎年一度カビが生えないように「風通し」が行われる。

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午後1時。そろそろ金沢に出発しなければならない。セブンイレブン広島元安橋東店を正面に左の小道へ進む。そこが爆心地だった。内科医院と隣接した道路脇にある原爆被災説明板。米軍が撮影した当時の写真と印刷された石碑が設置してある。爆心地の真下は当時も島病院だった。「空中に石碑を置くことはできない」。竹内公太の「エコーシューティング 盲目の爆弾」が思い出される。77年7か月と27日前、この上空600メートル地点で原爆は炸裂した。コントロールされた爆発。1945年8月1日の長岡空襲の翌年から始まった戦災復興祭。これが花火大会で有名な新潟県の長岡まつりに繋がる。
花火と爆弾に構造上の大きな違いはなくその目的によって名称が変わる。爆発を見つめる。

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金沢へ出発する。また7時間のドライブが始まる。高速道路に乗るまでの下道で、とてつもなく大規模な建設工事をみかけた。調べるまでもなく、これはスポーツの為のアリーナに違いない。それ以外にはあり得ない規模の建築だからだ。2024年オープン予定のサッカースタジアム。その名も「エディオンピースウイング広島」。平和への羽ばたき。スポーツもまた世界平和とよく結びつけられる産業だ。広島市街地のサッカースタジアム構想の歴史は長く、1947年に広島市長となった浜井信三は、現在のひろしま美術館のあたるエリアを、運動公園にする構想を当時から抱いていた。1951年に丹下健三が平和記念公園の設計した段階では、既に球技広場の構想は盛り込まれていたという。
浜井の急逝や財政難など様々な理由で頓挫し続けた構想だったが、原爆ドームから徒歩で15分という地でようやく実現する。風景が変わる。
広島県物産陳列館が原爆ドームと呼ばれ、広島市民球場が戦後の広島復興の象徴的存在となったように、このサッカースタジアムも何かを象徴する存在に将来なるのかもしれない。公園も建築も石碑と同様に記憶のモニュメントになりうる。

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『ヒロシマ・ロケーション・ハンティング』の為の2023年3月31日〜4月2日におこなった広島小旅行についての覚書(2023年9月 / 11月添削)


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