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278.受け入れる、ということ。

ずっとずっと、器を大きくする、許容の範囲を拡げていく、ということが成長であり、人としての正しい在り方だと思っていた。

全ての選択は自分の責任であるから被害者にはなってはいけない、と。

他人は変わらないから、自分が変わるしかない、と。

感情はコントロールしなければいけない、自分の許容量が大きくなれば反応することがなくなるし、今まで気になっていたことも気にならなくなる、と。

いつの頃からか、その価値観に従って何でも受け入れようとし、少々何かあっても許すことを心がけ、みんな本質は愛で出来ているからと、感情が動いても、涼しい顔をして相手を理解しようとした。

どんなことがあっても、相手は自分の鏡だから信じよう、理解しようと本気で思っていた。

もちろんそのような価値観がしっくりくる人もいるだろうし、それはそれで素晴らしい考え方だと思うし、否定的に捉えているわけではないのだが、それは非常に私を苦しめた。

私の資質上、この価値観を採用すると境界線が曖昧になってしまう。

ただでさえ敏感なのに、肉体的にも精神的にも、「私はあなた、あなたは私」の感覚がより鋭くなるのだ。

境界線の侵入を許したり、逆にこちらが境界線の侵入をしてしまったりと、共依存状態や、何でも許し、受け入れることによって都合よく利用される、というような状況を生むようになった。

これは元々ではなく、このような価値観を採用してから顕著になった。

それからというもの、世の中に出回っている精神論は参考にこそするものの、実際に自分に落とし込むときは、自分の感性が受け入れるかどうかをしっかり見るようにしている。

そうしていくと、私のようなタイプは、許容の範囲を狭めていくことがまず必要だということがわかった。(ちなみにこれはプロセスである)

自分を守るラインが低すぎて、モラル的に考えて精神論で片付けられる範囲のことではないことも沢山許容していたことに気付いたのだ。

ダメなものはダメ、嫌なものは嫌、とNOを言うこと、

怒りや悲しみなどの感情を出してもいい、無理に反応しない自分、気にならない自分になろうとしなくてもいい、ということ、

どう話し合っても話にならないような相手もいる、ということ、

つまり、自分が変わるだけではどうにもならず、関わらない方がいい関係性もある、ということ、

(むしろ、自分が変わらなきゃ、と思うような関係性に疑問を持つことも必要だということ)

全ての選択の責任は自分にあるからといって、何でも自分のせいにするのは違う、ということ、

何でもかんでも許し、受け入れ、理解しようとする必要はない、など、

それまでの価値観とはひっくり返ったような価値観が自分にはぴったりはまり、今まで見えていなかったものが一気に見えて、やっと自分と繋がった感覚を得たのだ。

今、ようやくそのプロセスを経て、次は幸せの基準の底上げと、その基準を元に、拡大を図る作業が始まる。

自己価値の大変革とも言えよう。

これは、自分と向き合いつつもワークをすることで視覚化できる。視覚化できたら、客観的に認識することができるので、その情報が繰り返し入ってくると、潜在意識はアンテナを張り始める。

セッションでもそのようなワークをやっているので、有効活用して欲しいな。


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