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289.なんでも許していた時のこと。

なんでも許し受け入れるって、一見すごく器の大きい人に見えない?

実際にそのように周りから言われていた時期もあったし、愛が深く、優しい器の大きい人って言われるのは、悪い気はしなかった。

けれども、実際はそんなことはなくて。人間だもの。

色々な複雑な思いを抱えるし、悪態だってつくし、怒りの感情が沸きまくることもある。

だから、次第にそのような人を求められているような気がしてしまって、私だって弱い部分あるよ?優しい人じゃないよ?って言いたいのに言えなくて、限界が来るまで誰かを頼ることができなかった。

で、いざ頼ろうとすると、依存だの自立してないだのって突っぱねられたりして、もう二度と人を頼らない!!って余計なってしまったりね。(笑)

こういう現象を起こしてしまうのは自分自身がすごく罪悪感を感じながら頼るからだろうな、と思う。その意識が反映されたのね。

とにかくずっとそんな自分でいるのが苦しくなったし、自分自身がボロボロになっていく現象が多発したので、もう、私、そんな人やめるわ!と決意したのがつい数か月前。

じゃあなんでそんなに苦しかったのに許し受け入れてしまっていたのだろうね。

自己肯定感や自己価値の低さとか劣等感はよく言われることだけど、私は自身の経験から常にそういった意識状態ではないっていうことに気が付いたので、確かにそういった部分も少しはあるのかもしれないけれど、全部が全部そうだとは思わない。

今思えばこれは私なりの愛の表現だったんだな、と思う。

綺麗ごとに聴こえるかもしれないけれど、私はどこかで性善説を信じていて、どんな人も本質は美しく、拗れた表現は全て自分を守るための愛だと思っていたから、最後まで信じる、ということが私にとっての愛だったのだ。

けれども結果それは、自分自身の事を蔑ろにすることになった。

よく解釈すれば自分のその信念に沿って生きることが自分への愛だったのかもしれないが、理不尽だと思っても相手にも事情があるしこちらがどうのこうの言うことじゃない、と許せば、相手の責任や課題をこちらが引き受けることになる。

やり取りの中ですごく不快なことがあっても、相手は悪気があったわけではないし、こちらの被害妄想かもしれないから、となかったことにすれば、その人は、また同じ行為を繰り返し、気が付けば都合のいい人になってしまっていた、ということもしばしば。

さすがにそれを繰り返していくうちに、これは愛ではないな、と気付くこととなった。

いわゆるダメンズ製造機とか依存させる人(共依存)っていうのは、このような思考回路なんだろうな、と思う。

敢えてそうしたくてしているわけではないのだけどね。

私の生きたい世界が、本質で生きる世界だからかな。

みんなが本質を生きれば、どんな出来事にもいい悪いはなくて、そうであるなら、嘘や誤魔化しなくみんな本音でコミュニケーションが取れるようになる。

そうしたら、殆どの拗れた問題はなくなるんじゃないかな、と思ったの。

エネルギーを無駄に漏らしてしまったり、必要以上に消耗することに使うんじゃなくて、もっと創造とか豊かさにエネルギーを使って分かち合う世の中は本気で実現すると思っていたから。

だけどね、それはある意味”多様”である、ということを受け入れていないことでもあるな、と。

根性がねじ曲がった、共感性もクソもない人だって居てもいい、ということを許してなかった、ということになる。

昨日の記事にもあるけれど↓↓↓

陰陽の太極図について書いてあるのだけど、

陽の部分しか見ずに、そこを膨らまそうとばかり思っていた。陰をなかったものとして。

許し、受け入れる、という認知が歪んだものであったということだ。

そのような存在に対して、否定も肯定もしないけれど、自分が関わるかどうか、何かあった時にNOを言えるかどうかは選択できる。

なかったことにしてしまうから、NOと言いたいものに対しても、全てを許し受け入れなくてはいけなくなる。(性善説が故にね)

だから、世の中には色々な価値観や考え方があるが、私は自分の感覚や直感を第一優先することにしたのだ。

やっと、どこにも答えはない、ってこういうことね、と実感したよ。

あなたはどう?

自分の感覚を信頼して生きてる?


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