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忘れられない先生

大切にしている教え

38年前のこと。。。

何を隠そう、38年前のことというタイトルを書いておきながら。
「ええぇっっっっっ?!」
と、なっているのは言うまでもありません。
もうそんなはるか昔に出会ったことなのか。
この間、サーッと時間だけが通り過ぎた。

何の話だったか一瞬飛びそうになったので戻していきます。
38年前の私は小学5年生。11歳。
当時の私が没頭していたのはトランペット。
そう、水泳ではなくこの管楽器に大変魅了されていました。

ちょうど担任の先生が音楽の先生で。
小柄な男性で、ユーモアに富んだ優しい先生でした。
この先生の指導するトランペットのクラブに入って練習していたんです。

この頃私の住んでいた場所は本当にドのつく田舎でした。
近所には農協と小さなスーパーしかない。
郵便局と小さな診療所はあるけどバスも1時間に2~3本。
小学校は学年2クラス。
学校の周りは360度田んぼでした。

だから、窓を全開にしてトランペットの練習をしてました。
全力で吹いてもクレームなんか来ない。
今となれば風に吹かれながら贅沢な環境でしたね。

私はその先生に非常に大きな影響を受けていました。
尊敬でもあるし憧れでもある。
だから認めてもらいたくて朝も休み時間も練習しました。
いわゆるトランペットバカだったと思います。

38年前。
水泳に突き進む前の私が出会った忘れられない先生。
この小学校の担任の先生です。


今を生きる

そんな担任であり、トランペットの師匠でもある先生。
何故この先生が私をそんなに惹きつけたかというと。
それは紛れもなく「唯一感」でした。

学校の先生人たちは、おおむね同じように見えるものです。
男女の違いや体格の違い。
教科による服装の若干の違いはあるかもしれません。
でも、だいたい一緒。笑

何が一緒かというとその先生たちの所作や言動が一緒。
考えていることも多分一緒。
個性が少ない。

特に昭和の時代ですから、個性なんて多様にあるはずがない。
今となれば大いに納得のいく背景なのですが。
この先生は違いました。

学校行事でもないことを企画してクラスだけで体験させたり。
校舎にいきなり渋柿を吊るして干し柿を作ったり。
大雪で他の先生の車が全車右往左往している時に傘をさしてスイスイ歩いて登校してきたり。笑

授業中もダジャレばっかり。
「誰か弁当作ってくれ」と言いながらUFOを作ったり。笑
日直の朝の仕事は先生のかばん持ちからスタートでした。

今思い出してもこれほどスラスラ出てくる先生はいません。
とにかく個性のある素敵な先生だったんです。

それでね、この先生が詩や俳句をよく書く先生だったんです。
国語の時間には子どもたちにもやたらと書かせました。
もちろん私も書きました。

そんな先生の言葉で今も大切にしている教えがひとつ。
「おかげさまで」をつけて挨拶をしなさい。
です。
極めて当たり前のことなのかもしれません。
あ、それだけで全然違うんだ。
と子供ながらに直球で理解できました。

この「おかげさまで」の言葉で
私はたくさんの人と繋がり、たくさんの絆を作ってくることができた。
そう思えるほど私は正直に大切にしてきましたし、
実際にそうなんだろうと思っています。

この先生はたった1年の担任を終えて別の学校に転勤となり。
私との縁はこの1年間だけだったのですが。
今も毎年年賀状を出させて頂いています。
もちろん先生からもお返事を頂いています。

先生から転勤する際に頂いた言葉は
「名トランぺッターになれよ!」
でした。

すすす…すみません。。。
完全に道が外れてしまいました。
中学進学以来、私のトランペットはケースの中。
今も私のクローゼットに保管してあります。
富山に行っても、沖縄に来てもずっと一緒です。
多分棺桶の中に一緒に入るんだと思います。

許されるのであれば。
コロナが終息した今だからこそ、会いに行きたい。
38年ぶりに会って、心からのありがとうを伝えたい。

そして、「おかげさまで」をつけて家族を紹介したい。


自然こそ
我が師とぞ思う
今を生き


私の恩師が詠んだ大好きな句のひとつです。
最後までありがとうございました。
また連絡します。


#大切にしている教え

スイミングスクールのない地域、水泳を教えられる先生のいない地域へ出向いて指導を提供し水泳を安全に楽しむ技術や水泳を通した健康づくりを普及させたいと考えています。ぜひ皆様のお力をお貸しください。