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ぼっちとサークル

なぜここまでサークルに所属したがるのか。

大学生が語る思い出といえば、息を吸うようにサークル、息を吐くようにサークル、彼ら彼女らにとってサークルは呼吸を司る臓器なのだろうか。

勿論答え、"いいえ"だ。

ぼっちの私だってサークルくらい入る。

登山、軽音、放送、旅行、演劇、いずれも私が経験してきたサークルだ。

5つものサークルに所属してたと聞けばさもリア充っぽいが、実際のところはどのサークルにも馴染めずに、所属しては辞めを繰り返しただけだった。

ぼっちの私がサークル入ってみた話を二つ紹介したい。

夏山で凍死しかけた話

なぜ人は山に登るのか。

たった10ヶ月しか登山サークルに所属しなかったからか、その答えを見つけることができなかった。

活動人数は5、6名。二年に一度は海外遠征に行く少数精鋭部隊だった。

少数サークルにありがちの身内で屯する雰囲気は一切なく、ただただ黙々と山に登り続けるだけの不可思議な集団であった。

私も郷に従い土日が来れば山登りをする生活を繰り返し、日本の標高2位から5位までは制覇する勢いで山を次々と上り詰めていった(富士山は山道が整備されており簡単すぎるから登らないといったプライドがなぜかあった)

登山開始数分でなぜこんな果てしない坂道を登り続けなきゃいけないのかと自分を客観視しては虚しくなるも、土日に飲み会があるわけでもない私は暇つぶし程度の惰性で続けていた。

しかし、そんな私に忘れられないあの夜がやってくる。

山の天気は変わりやすい。

北岳の山頂アタックを控えて、テントを張ったキャンプ地に激しい雷雨が見舞われた。

狭いテントで私(1年生)、先輩(2年生)、先輩(3年生)の三人で寝ていたところ、突然先輩(3年生)が私にこういった。

「お前場所変われ」

テントでは真ん中が一番人気がなく、一年生の定位置であったが、突然端側の先輩が場所の交代を申し出てきたのだ。

場所を変わっててすぐに先輩が真ん中の位置を欲した理由が分かった。

テントの端はすでに降りしきる雨水により浸水していた。

体に染み込む雨水の感触は不快だったが、寝てしまえば気にならないだろうと諦めて寝ることを試みる。

しかし、夏の標高3000メートルは昼間でも10度を優に下回る。夜が深くなるに連れて増す寒さに、水を吸った衣服が追い討ちをかけるように体の熱を奪っていた。

8月のある日、私は凍えていた。

激しく鳴る雷、びしょ濡れの全身に容赦無く押し寄せる寒さ、あとこれが数時間も続く。あっ、死ぬな、そう思ったと同時に温かい場所で寝れるということの当たり前がどれほど尊いことかを実感した。

他にも熱が38度ある中で登山することになったり、ビレイが機能しておらず命綱なしで先輩を崖に登らせてしまったりと、土日暇だからくらいのモチベーションで続けていくといつか命に関わると思い、サークルを辞めた。

勿論、友達はできていない。だってそこにいたのは、単位そっちのけで平日はロッジ(山道具専門店)でバイトをし、休日は山に登る、そんな世界で生きる人たちだ。

彼らは、ぼっちだとかそういう世界とは一線を画した、ただ身分が大学生であるだけの山男だった。

辞める話を切り出した時、先輩は部室で岳を読みながら哀れむような目で私を見てこう言った。

「お前は下界の人間だと思ってたよ」

その翌年、そのサークルはネパールのとある山脈地帯の未踏峰へと到達していた。

軽音楽部で誰ともバンドが組めなかった話

大学入ったらバンドやるんだ!と意気込んで、邦ロック聴いていた高校時代

キーボード担いで軽音サークルに単身乗り込んだ私は、手始めに新入生バンドを結成した。しかし、始めて間も無くギターの男の音沙汰はなくなり、ベースの女は身内の葬式があるということでライブを欠席し、気づけばボーカルとキーボードとドラムというもはやバンドですらない何かが出来上がってしまった。

大学生というものは、面倒なことを辞めていいといった人権を振りかざす習性がある。

きっと消えていったギターもベースも他にやりたいことが見つかっただけななのだろう。

サークルの先輩二人が穴埋めで入ってかろうじてバンドを成立した中でステージに立った私たちには結束力なんてあるはずもなく、高校時代思い描いた青春バンド物語とは対偶の世界線で、事務作業のごとく鍵盤を叩いていた。

当たり前のようにバンドは解散し、その後誰とも組めるはずもなく、私の軽音ライフはあの時のたった一曲で終わった。

曲はaikoの”花火”

去年の紅白でのaikoの演目も確か花火で、ファラドシラシラシドレシファ〜と未だにあの前奏のキーがこびりついて離れない。

最初のはずだったステージで、気づけば最後の残り火に手を振っていた。

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