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「知る」はサミシイ。「驚く」はいつもワクワク。だから「不思議をただ驚いていたいんだ」 国木田独歩。

「びっくりしたいというのが僕の願いなのです」
「宇宙の不思議を知りたいという願ではない、不思議なる宇宙を驚きたいという願です!」
「死の秘密を知りたいという願ではない、死という事実に驚きたいという願です!」

国木田独歩『牛肉と馬鈴薯』 https://www.aozora.gr.jp/cards/000038/files/323_43411.html

存在理由が欲しい人間

 人はどうしたってそこに「理由」がないとどうにも居心地が悪い。
    理由って因果や目的、つまりストーリーといってもいい。
    でも、悲しいことに、神さまって、たぶん、宇宙の創造物たるものすべてに、なんの存在理由=ストーリーも与えていないのかもと思う。
    自分も宇宙も、ただ「在る」だけ。
 意味などない。
 しかしこれって、考えるほどになんだか怖くなってくる。

 この恐怖に耐えきれないから、人間は絶えずストーリーを編もうとするのかな。
 ストーリーには結末があり、つまり最後に必ず答えがある。
 自分と自然がこうして存在する真の目的・理由がきっとあると思いたいのだ。
 でもおそらくは、たまねぎを剥くように、めくってもめくっても、本尊は最後になっても現れない。
 存在理由は果たして、ない、のだ。

物語は自分の中にある

 「風景画を描くということは、自然の有り様から物語を見つけ出すということ」
 そう語る水彩画家・木沢平通さん。
 やはり物語なのだ。
     描き手が対象に見いだそうとしている物語。それはつまるところ、見ようとしている自分自身の中に生まれてくるもの。

独自の境地を開く水彩画家・木沢平通さん。2023年11月26日、兵庫県加古川市にて。
「夏空」 木沢平通

    といっても、自然は人間の感情などつゆとも関知しない、恐ろしいほどに無目的な存在。
 それでも恐れずにそれに触れようとする時、人の中に驚きが生まれる。
 描き手がいま、対象に見いだそうとしている物語は、自分自身の中に生まれた驚き。
 その時、そこに新しいストーリーが生まれている。
 画家の描く絵にぼくたちは、画家の驚きの心を見ようとしている。   
 描いた人の驚いた心が見えたとき、それを感動というのだ。

 モノそのものを写しとる写真だって、そうだ。
 いい写真にはストーリーがある。
 撮った人の驚きの精神が見えたとき、心に残る写真になる。

 もちろん文章づくりも。
 書いていて、筆が走り、自分でも思いも寄らない展開が現れる。
 小説なら、登場人物が勝手に動き出す。
 自分でも驚きながら筆をすすめる。そうなればしめたもの。
 書き手のだいご味がそこにある。

 実は、読み手だってそうなのでは。
 書き手が驚いてオロオロしている。でも楽しんでやがる。
 そういうのがちらちら見える。
 これがよかったりする。
 計算された表現ばかりされると、つまらなく感じる。
 読み手にだってプライドがありましょうから。

 漫才のミソはライブ感にあり、ジャズはアドリブが命という。
 聞き手はもちろん、演り手も次の瞬間の言葉や音を確信していないという、何とも頼りない事態。
 でもそんなスリリングな時空こそが魅力。
 考えれば現実世界も同じだ。
 確信など、あってないようなものだもの。

驚く、という巨大な能力

 作り手がそのとき何に驚き、どう変容したのか。
 絵だって写真だって映画だって、はたまた文章だって音楽だって、見どころ、聞きどころ、読みどころは、そこにのみあるといってもいいぐらい。

 存在理由を悲しくも問い続けるしかない人間存在。それを知りたい。でもその先には何もない。知れば、納得してそれで終わり。さみしさがつきまとう。
    だが、「驚き」は新しい問いの始まり。異なる世界の存在、その予感にうち震えるワクワクのとき。
 遠足の前夜のような。
    その果てに決して「理由」は見つからないとしても、いや、見つからないまま、延々と驚き続けていきたい。
 
 国木田独歩は、「知りたい」ではなく、「驚きたい」という言葉で、果てを持たない物語への、人間の飽くなき欲求を表現したのだ。
 
 「知る」は問いの終わり。
 「驚く」は問いの始まり。
 
 驚く、という能力は、存在に苦悩する人間にとって、つかの間とはいえ苦しみから逃れられるまたとない救いだ。
    使わない手はない。


木沢平通水彩画教室展示会 2023年11月26日・兵庫県加古川市
120点の水彩画が並ぶ。壮観。


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