【短編】夏奈のカレー
執筆年:2024
BGMにおすすめ:Billie Holiday - Solitude
「まーた、訳の分からないものを書いているの?」
背中越しに、夏奈が言った。色あせた灰色のTシャツを手であおいだ後、彼女はベッドサイドの窓に手を伸ばす。
格子状の線が入ったビジネスホテルの窓は、転落防止のためにわずかにしか開かない。けれど、たった5センチの隙間でも、夜の名古屋の空気を感じるには十分だった。車が行き交う表通りの音が断続的に聞こえ、夜の熱気が部屋の湿度を上昇させた。
「あちゃー。かえって暑いわ」
「まあでも、気持ちがいいわよ」
私はデスクの前に備え付けられている鏡を通して、彼女の一連の動作を見ていた。彼女は身を乗り出すようにして、隣のビルとの隙間に見える道路に顔を向けている。私は傍らに置いてあったリモコンで、エアコンの設定温度を21度に下げた。
「これなら、開けたままでもいいんじゃない」
「部屋が味噌カツ臭くならないといいけれど」
昔から私は窓を開けることが好きで、それに引き換え地下室や締め切った部屋が嫌いだった。彼女にも、せっかく開けた窓を閉めてほしくなかった。
「で、何を書いているの?」
「今日は、この部屋を題材にした短編小説を書いているの」
私はパソコンを打つ手を止めて、椅子をくるりと回転させた。
「へえ。またまた、お得意の短編ね」
夏奈はピンクとゴールドの中間にあるような色のおかっぱ頭をいじりながら、何気ない感じで言った。ベッドに落ちていた使い捨てのプラスチック櫛を手に取って品定めすると、もとあった場所に投げた。仕草がまるで実家の猫のようで、少し笑った。
「そう、短編なのよ。日記にはちょうどいいからね」
私はキーボードから手を離し、伸びをした。
「ねえ、一つ聞いていい?」
彼女はあぐらをかいて、左右に身体を揺らしていた。
「瑠香はさ、今このホテルにいる時間を楽しいと思っている?」
「それなりに楽しいよ。だからこそ文章に残そうと躍起になっているの」
「どうして、そんな回りくどいことをするの?もっとさ、素直に、今の瞬間を楽しめばいいじゃない。私みたいに」
彼女は、ベッドサイドの灯りの元に置かれていたエビスビールの缶を口に運び、脚を雲のような色のシーツに伸ばした。
「やっぱり、私には分からないなあ。あなたは本当の部分を、私に見せてない感じがするわ」
「ごめんね」
「別に、謝らなくてもいいのよ。だいたい地球は、そういう感じに回ってきたんだから。今さら驚かないわ」
デジタル時計は午後9時を指していた。私は冷蔵庫に入れておいたタッパーを取り出して、入り口ドア近くのレンジで温めた。
3分後に取り出したタッパーの青い蓋には、水滴がたくさん付着していた。
「今日は何を作ってくれたの?」
タッパーは夏奈が持ってきたものだった。
「カレーライス」
「ナツナシェフはカレーの気分だったのね」
「知ってる?ガールフレンドが突然カレーライスを作ってきたときは、別れの合図なのよ。死期が近づいたカラスが町から姿を消すように、彼女は消えるの」
私は驚いて夏奈の方を向き直した。タッパーから、スパイスの匂いを乗せた水蒸気が上がる。
「そんな話、聞いたことないよ」
「嘘に決まっているじゃない」
彼女はペディキュアの調子を確かめるように、シーツに負けないほど白い自分の足を見ていた。
「ほんと、あなたって変ね。いつでも物語を書いているくせに、現実で使われるカンタンな嘘も見抜けない」
「なんだか腹が立つわ」
「そういう意図で言っているんだから、当然よ。早く食べなさいよ」
私は引き出しにあったプラスチックのスプーンを使って、少し熱すぎるカレーを口に運んだ。とても辛かったが、鶏肉に味が染みていて美味しい。汗をかきながら食べる私を、夏奈は表情のない顔でベッドから見ていた。
「うまいよ」
「でしょ」
いつも通りの会話が交わされた。
「ねえ瑠香」
「なに」
「私がいなくなったら、あなたはそのことに気づくことができると思う?」
「どういうこと?」
夏奈はベッドの淵に座っていた。
「私ね、自分が明日いきなり消えても、あなたがそれに気付かないような感じがするの。なんて言ったらいいんだろう、気が付いているのに気が付かない、って状態かな。瑠香はきっと、私が居ない事実をさらっと受け入れて、私のことを小説に書き続けて、それでスッキリ満足する。洗脳に洗脳を上書きして解決するみたいに」
「そんなことないと思うけど。まずもって、あなたが消えなそう」
「もちろん、安い映画とかライトノベルじゃあるまいし、あたしみたいな美女がいきなり消えることは無いわよ。けれど、それが空想だったとしてもね…私は空想のなかのあなたの態度が、ちょっとこれまでにないくらい寂しいの。どういうわけかね」
「そうなんだ」
私は静かにカレーを食べ続けた。夏奈も黙ったままだ。都会の風がちいさな部屋に、様々な感情を持ち込んでいた。
その空気に何気なく紛れ込ませるように、夏奈はつぶやいた。
「わたし、赤ちゃんができたの」
私は彼女の方を向かなかった。鏡に映る、俯く彼女のつむじを見ていた。
「去年の暮れに、付き合い始めたって言ったでしょう?京都に住んでいる男の子と。彼との間の子なの」
「そうだったんだ。おめでとう」
私は口がぱさぱさに乾燥していた。言うべきことはもっとあるはずだ。なのに、月並みなことしか浮かばない。
「秋にはあちらに引っ越さないといけないの。京都の五条って知ってる?『呪術廻戦』の先生じゃないわよ。その辺りにある彼の実家に住むのよ」
そんなことはどうでもよかった。でも、私は何も言えなかった。
「そしたら、もう会えなくなるわ」
街の車の音が、いちだんと遠く聞こえた。私たちが抱き合って眠ることができた夜は、後にも先にもこれが最後だった。
つぎの日、私たちは朝の街を歩いていた。
「カレーを作って、ほんとうに消えてしまうのね」
「少なくとも、事前に知らせたわよ」
彼女は古着屋のアルバイトに行くため、パンクロッカーのような格好をしていた。いっぽうの私は図書館司書の仕事のため、紺のブラウスを着ていた。
「もう、会うのを止めたほうがいいよね」
私は一晩温めておいたことを、できる限りさりげなく言った。
「うん」
彼女も私と同じ重みで、その二文字を口にした。
「でも、最後にお願いがあるの」
彼女が珍しく、そう言った。
「なに?」
「昨日書いていた小説があったでしょ?」
「ええ。パソコンに入っているわよ」
「それを絶対に完成させて、どこかに載せて」
彼女は立ち止まった。大きな黒いサングラスで目は見えなかったが、オレンジ色をした唇が小刻みに揺れていた。
「最後の最後で、あなたがしようとしていることが分かったわ。こういう時、私たちは物語を必要とするのね」
オレンジの唇が、無理に半月のような形状になった。
「あなたの手で、私たちの関係を供養してあげて。約束だからね!」
いつもと同じような平凡な夏の朝に、何てことなく、私たちは別れた。
そういう訳で、私はこの文章を完成させた。
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