コミュニケーションはいつもひとりよがり


「コミュニケーション論」というものに生まれてはじめて触れました。

聞けば聞くほどそのおもしろさというより、不可思議さに魅了されます。

簡単なまとめです。


コミュニケーションの種類

まず、コミュニケーションには3種類あるとされています。

①パーソナルコミュニケーション

②マス・コミュニケーション

③中間的コミュニケーション 

(専門家・組織・地域など限定的に伝えること) 

の3つです。仕事をしていると中間的コミュニケーションが増えますが、

②は直線的、③は目的性が高いので、①の発展型と考えられます。



コミュニケーション論とは

アメリカ人の社会学者・ジョージ・ハーバート・ミードによって体系付けられています。

ミードはこのように定義しています。

「社会課程を進行させる根本的なメカニズムは「身ぶり」である。

コミュニケーションは個体相互の動作のやりとりによって進行する」

コミュニケーションは、身ぶりという一種の記号に媒介されている

「相互適応」にほかならないというのです。

さらに、その身ぶりの意味を決めるのは、他の個体の反応であるといいます。

つまり、コミュニケーションの意味を決めるのは「受け手」なのです。




人間的コミュニケーションとは

動物のコミュニケーションと人間のコミュニケーションの違いは、

言うまでもなく言語です。

言語はそれを自分でも聞くことができ、相手と体験を完全に共有できます。

身ぶりは自分では(相手と同じようには)見えません。

相手と同じ体験ができるということは、フィードバックして考察することができるということです。

その意味で言語を交えたコミュニケーションが優れていると言えます。



コミュニケーションと自我

人間は自我があってコミュニケーションしているわけではなく、

コミュニケーションすることで自我を生じていると考えられます。



ノンバーバル・コミュニケーションの文化的相対性

たとえば、目を見るという動作が文化によって好まれたり好まれなかったりするように、

非言語コミュニケーションは文化によって意味合いが変わります。

それは、文化が異なれば「解釈のコード」が違うからです。



ディスコミュニケーションって何だろう?

「意味の共有」および「相互理解」が達成できないことを、一般的に

ディスコミュニケーションと呼んでいます。

でも、これは本当に正しいのでしょうか。

そもそも100%自分の思考が相手に伝わることなど有り得ません。

さらに、コミュニケーションの内容は「受け手」が決めるものなので、

それが「送り手」の意志と同じであるとは限りません。

そういう意味では、コミュニケーションはすべてディスコミュニケーションとも言えるのです。

さらに、人間は経験・知識、記憶、イメージによって情報を理解します。

この「解釈のコード」が違うことで情報の意味は変わってしまいます。



つまり、あきらめるしかない?

人間は分かり合おうと、希望を持ってコミュニケーションします。

しかし、100%分かり合えることは絶対にありません。

相互の「解釈が一致した部分」だけが分かり合えるのです。

だから、相手の「解釈のコード」を理解し、一致する部分を増やすしかありません。



(おまけ)誰ともコニュニケーションしないとどうなる?

経験者いわく自我が崩壊して環境に取り込まれるそうです。山の中にこもる修行僧が「自然と一体になった」「仏と一体になった」と感じる【悟り】の真理を解き明かすのは、実はコミュニケーション論かもしれません。


















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