見出し画像

アウトプットは「愛」

すっごい腑に落ちた事があるので書きます。

日頃ぼくはとにかくアウトプットアウトプットと自分に言い聞かせていて。どういう事かというと、アウトプットすることで自分の心を浄化させることができると思うんです。だからこうして文章にするなり絵を書いてみるなり、いろんな形でもってとにかく外に出すことを日頃から心がけています。とにかく表現するのだ、と。

だけどそれは、あらゆる人間がこの社会で生きていく中で、「友達が出来ない」とか「ひとりで寂しい」とか、内側に塞ぎ込んでしまいがちな心を解放してあげるためのひとつの手段であり、毎秒雲のように変化していくこの心を形を残すことで繋ぎ止める、今という形を刻み込む至極シンプルで合理的な方法だと思うのですが、
一方でそれは、いわゆる「リア充」と呼ばれるような、日常が交友関係に恵まれて充実している人にはその必要はないな、と気づいたんです。
なぜならそれは、彼らは会話なりラインなり電話なりで言葉を伝えているから。すでにそれが表現になっているから。

ただ間違えないで欲しいのは、表現すべてにおいて言えることはひとつ。それは他者に対してディスり合ったり軽薄な言葉を投げかける事ではなく、すべては「愛」だけなんです。
愛、やさしさ、相手を思うこと。
相手がいて、その人の為だけの言葉をやりとりすること。普段日常的にそれが出来ている人は魂のレベルが高いと思います。

何で自分がそれに気づいたかというと、なんてことはない、マッチングアプリなんですけど(笑)
みんなそれぞれ違っていて、その「違い」の愛おしさをあらゆる言葉でもって慎ましく、時に熱く投げかける。その人にしか伝わらない、替えの効かない言葉を投げかける事が「表現」なんだなあとさっきとても腑に落ちた。それをやるとめちゃくちゃ心が循環される事に気づいた。

『私たちが世界に接する二つの態度』宗教哲学者のマルティン・ブーバーは、私たちが世界に対する接し方には二つの態度があると言います。一つは「我―汝」、もう一つは「我―それ」です。「我―汝」は、“対話”という「関係性」の世界。そして「我―それ」は、一方的に対象を物質化する「もの」を相手とする世界です。先の事例のとおり、相手が利用する価値がある間だけつき合う“損得関係”と言えます。

「我と汝」マルティン・ブーバー


友達なり恋人なりがいると、心が循環されて、「なんで自分はこんなに駄目なんだろう」とか多分言ってらんなくなる。
マルティン・ブーバーの言う「我と汝」という表現がとてもぴったりくる。一見するとマッチングアプリは代替可能な存在(簡単にスワイプして◯とか✕とか付けれちゃう)に思えるんだけど、みんな出自や居場所や経験が違くて、そこに深い愛しみを感じる。みんな違う、置き換え不可能、っていう事に自分は気づいてしまって、むしろ相手(本人)の方が気づいてないくらいなんで、そこをこちら側が気づかせてあげる必要があるんじゃないかと思うんです。とてもおこがましい話ではあるけれど。

だから何が言いたいかと言うと、、、相手を思ってなにか文章を考えるのってめちゃくちゃ表現だなと思うし、めちゃくちゃ楽しい。それが普段から出来ていれば日常はそれなりにうまく回ると思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?