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私は本の話がしたい:今日の日記と自己検閲について

自分のことを文章にする上で避けて通れないのが自己検閲だと思っている。
こんなこと書いても面白くないかもとか、あんまりこれは知られなくないなとか。
自分にとっては自明なことを文章として外に出すって、どこまで書くのが他者にとってわかりやすいのか推しはかるのが難しかったりする。

試しに、今日の私の行動を書いてみる。

5時に起きて朝食を食べた後、二度寝をして12時に起きた。その後また昼食を食べ、仕事に取り掛かり、昨日から執筆していた記事を完成させた後、校閲をしていた友達にチェックしてもらう。その後その友人から、趣味でやっているハンドメイドが全然閲覧されないという相談を電話で受ける。やっぱりおしゃれな写真を撮るのが大事とか、作成風景を動画にして声を乗せてTikTokを出してみるのはどうかとか、とりあえず売れているものを自分なりにアレンジして出品してファンを作るのはどうかとか、誰でも思いつきそうなことを言う。電話を切ったあとは坂口恭平の継続するコツという本を読みながら入浴。夕食を食べ、図書館に延滞していた本を返しにいく。アイスのレシピの本、経済の入門書、辺見庸のエッセイ集、フェミニズムの本を借りて、母親と電話をしながら帰宅。美しいフルーツのレシピを眺めた後にnoteを書き始める。

うーん。なんか、ここまで詳しく書くといかにも「私は本が好きな知的な人間です」みたいなアピールっぽい反面、こういう趣味嗜好の人間であることをnoteで表明したかった気持ちもある。でもこれを読んで他人が面白いとは思えない。自己検閲をできるだけ取り去って書こうと思ったけど、書けなかったこともあるし、書かなかったこともある。

今日の行動を書いているだけでここまで逡巡や隠していることが出てくるとは思わなかった。本当はもっと本について語りたい。なんでそれをしなかったんだろうと原因を考えると、誰もそんなことに興味ないよなと思ってしまったから。

たぶんそれこそが自己検閲だ。別に書きたくないことはそのまま隠せばいいけど、本当はもっと事細かに愛を込めて説明したいのにそれをしないのは、絶対に自己検閲。

noteで面白いのって、その人の物語が垣間見れる時だと思っている。綺麗じゃない本音が語られていたり、その人の色というか、人間味を感じられたりするとすごく魅力を感じる。たぶんそれって滲み出るものだし、熱量を込められるものに一番反映される個性だと思う。誰かが求めていようがいなかろうが語ってしまうことこそその人が現れる気がする。

辺見庸の本は両親が持っていて、『もの食う人びと』というエッセイを少しだけ読んだことがある。名文として有名で、少しでも美しい文体に近づきたくて借りてみた。借りたのは『コロナ時代のパンセ』で、戦争法からパンデミックまでの7年間の思考という副題がついている。コロナの感覚とか忘れつつあるなと最近反省していたのもこの本に興味を惹かれた理由の一つだ。

フェミニズムの本は、森山至貴著『女性を閉じ込めるずるい言葉』。自分が家から出て、男性と健全なパートナーシップを築けるようになってからフェミニズムに対しての関心は前よりなくなったが、あんまりいい兆候ではないよなと思って。理論書を読む元気はなかったので、少しだけ軽い読み物を借りた。

最後の一冊は、山本御捻著『世界一たのしい経済の教科書 経済ってなんだ?』
対話形式で進んでいく、中学生くらいを対象としていそうな本。日経の解説書を探していたんだけど、2017年度のものしかなかったので、こちらを借りた。

今までで一番長い文章になってしまった。
自分が話したいことを自由に語れるのがnoteなんだから、自分の好きなように使わせてもらうのが一番いいのかもしれない。




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