見出し画像

お手伝いさんのルイーザ

我が家には半年ほど前まで、週一で通いのお手伝いさんがいた。「お手伝いさん」、というと裕福な家庭での話のようだが、お手伝いさんに家事を手伝って貰うことは、この国では昔からある慣習のようなものなのだ。


新婚当時の我が家には、主人の独身時代からの方がいた。でも、彼女は私がこちらに来て割とすぐに辞めていった。健康上の問題と記憶している。お手伝いさんが居ないならそれはそれで構わない。お手伝いさんのメインの仕事であった掃除やらアイロン掛けなどは、適当とはいえ充分自分で出来る。実際、お手伝いさんが来ない他の日々はそうして来たのだから。それに、他人が家に居ることに不慣れだった私は、お手伝いさんがやって来る日が少々窮屈に感じられていた事も事実。気が休まらなかったのだ。


年月が流れ、娘の出産を控え、再度お手伝いさんを雇うことになった。ある日彼女はやって来た。彼女の名前はルイーザ。私と同い年の、眼鏡をかけた白人女性だった。初日に彼女とどんな事を話したか、あまり記憶にない。どこに住んでいるか?とかそんなありきたりな事だったと思う。その問いに返ってきた地名も良く分からなかった。(2時間ほどかけてやって来たそうで、遠い所だった事には間違いはあるまい。)


ルイーザの初勤務日から一週間ほどして娘が生まれ、彼女との次の対面は産院を退院して間も無くだった。この国に実家がない私は「何でも自分で出来る」と強がる事は出来なかった。義母が毎日のように通って来てはくれたが、それは単に孫見たさのためだった。予定外に帝王切開で出産した私にとって、義母の言う「帰って来たら何でも出来ますよ!私がそうだったから。」と言う言葉はプレッシャーでしか無かった。お腹を切って出産後、3、4日で退院させられ直ぐに何でも出来るって。。早速お手伝いさんの有難さを実感することとなった。


ルイーザは基本、無口で良く働き、真面目で信頼の置ける人だった。朝8時に出勤して来て夕方5時に帰る。我が家での主な仕事は以前の人の時と同様、掃除とアイロン掛け。掃除にはこの国独特のやり方があって、私はそれについて一度も口出しはせず、安心して全てを彼女に任せた。掃除はどこもかしこもピカピカに磨きあげるのがこちら流。だから年末の大掃除など必要ないほどだ。

アイロンがけも独特で、タオルや下着など洗濯したものには全てアイロンがけをする。これは洗濯物を室内干しする習慣から来ているらしい。長時間の立ち仕事だったから結構な重労働。(そして今でも好きになれない仕事。)手伝って貰える事は本当に有り難かった。料理は食文化の違いから任せる事は一度も無かった。


初めての子育てに無我夢中になり、やっと余裕が出て来た頃に息子を授かった。娘が早目に生まれて来たこともあり、産婦人科医からは予定日一ヶ月前からの外出を控えるように、と仰せつかった。娘は間もなく4歳になる頃で、すでに近所の幼稚園に通っていた。もう幼稚園の送り迎えも出来なくなる。。週一のルイーザの勤務日がこの時から平日5日になった。


産前の1ヶ月と産後の1ヶ月は平日は毎日ルイーザがいてくれた。義母は沐浴の為には来てくれたが、「何でも出来る」という思い込みが相変わらずあったから、ヘルプはとてもではないが頼めなかった。当時主人は激務で帰宅は遅く、海外出張のため数週間家を空けることもザラだった。ルイーザは娘を幼稚園に迎えに行き、そのまま散歩に連れ出したり、アパートの公園で遊ばせてくれたりした。娘は基本家では日本語を話していたが、幼稚園で覚えたポルトガル語でルイーザに話しかけたりして、それはそれで楽しそうだった。新生児の世話にかかりっきりで疲れ果てている母親に愛想をつかし、何でも許してくれる優しいおばさんがもう大好きに。ルイーザの後を追って話しかける娘の姿が笑えたものだ。


子供達の成長とともにルイーザの勤務日数も減っていったが、今度は子供達に代わり彼女は私の話し相手になっていった。彼女は自分からは進んで話をするタイプではなかったが(これはブラジル人女性には珍しい)、話しかけると驚くほど色々なことを話してくれた。ブラジル北東部のパライバ州出身である事、実父が三度結婚されて(奥さんとはいずれも死別)、自分は19人きょうだいの中で育った事など。それを聞いただけで彼女のこれまでの苦労を垣間見た気がしてちょっと切なかった。彼女自身にはうちの娘より5つ年上の娘さんがいるのみだった。ひとりの子供を大事に育てたい、という考えなようだった。ミッシェリ(娘)にも会ったことがあるが、可愛らしくてしっかり者、利発でルイーザ自慢の娘さんだった。

うちで働くようになってからも、ルイーザは数々の試練を乗り越えた。自身の長引く病気、ご主人の頭部の手術、娘さんの足の大怪我。実父や兄弟の死。。ご主人の浮気騒動。そして離婚。その時は勿論それなりに大変そうだったが、彼女が強く信仰するモノが彼女を救ってくれていたように思う。かといって彼女はそれを他人に押し付ける事は一切無かった。年に一度、信者が集う大きなコングレスがあるとかで、その時ばかりはまとまったバケーション以外に有給休暇を取って旅行した。本当に熱心な信者だったのだ。


普段は穏やかで物静かなルイーザでも、ごくたまに感情をコントロール出来なくなる事があるようだった。例えばアパートの門番の、自分に対する態度がなっていないとか、実妹が酷い仕打ちをして来たとか、帰宅しているはずの娘と連絡が取れない、などの理由で、眼鏡の奥の茶色い目を涙でいっぱいにし、取り乱すこともあった。肉親の死を受け止めた時とは別の表情。そんな時はこちらも面食らい、なだめるのにも苦労した。幸い、怒りの矛先が私に向けられた事は一度も無かったけれど。


彼女がうちに来て今年で約20年が経った。子供たちが「Tia Luiza !(ルイーザおばさん!)」と言って彼女の後を追い回すことはもちろん無くなった。子供たちはそれぞれ成長し、学費もかかるようになり、家計を大幅に見直す時期に差し掛かった。非常に残念だがルイーザには辞めてもらうことになった。彼女にそれを伝える時、どういう反応をするかがとても心配だった。辞めて貰うひと月前に意を決して彼女にその旨伝え、その後にこう付け加えた。「次の仕事を探すお手伝いをしましょうか?」応えは意外にも「必要ない」だった。自分は若い頃から長く働いて来て体も辛いし、この辺で仕事を減らしていきたいと。何度訊いても同じ事を繰り返すばかりだった。悲しい決断ではあったが彼女の言葉に正直ホッとした。


いよいよお別れの日が来た。私たちはカードにメッセージを寄せ書きして、子供達が幼かった頃の写真を添えた。ルイーザはその場ではカードを開封せず、ただ「ありがとう」とだけ言った。ちょっと泣いている様にも見えたが、取り乱す事は勿論無かった。でも人との別れはいつでも寂しいもの。何ともやるせない気持ちになった。

その後、仕事を終えて地下鉄に乗り込んだルイーザから短いメッセージが届いた。「約20年に渡って働く機会を与えて下さった事に感謝しています。私の方こそ、寂しくなります。」そう書いてあった。短いけれど心のこもったメッセージだと思った。


ルイーザとお喋りをした中で特に印象に残った彼女の言葉がある。

「政治家達のダメなところは欲張りなところよ!自分達が暮らせるだけの給料を貰えたらそれで良いじゃないの⁉︎」

だった。多くを望まず、シンプルな生活を望んでいた彼女らしい言葉だなぁと今更ながら思う。


ルイーザにはあの日以来会ってはいない。彼女にこのエッセイのことを話したらどんな反応をするだろう。楽しみなような、怖いような。眼鏡の奥の彼女の目を見て確かめてみたくなった。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?