思い出のホテル〜ホテルパシフィック東京〜
日本の父が亡くなり、今日でちょうど一週間になります。施設に入所した後、2度に渡る入院、療養型の病院への転院などがあり、万が一の場合の覚悟はできていると思ってはいたものの、心の中はやはり穏やかとは言えないようです。
葬儀は近親者だけで木曜日に執り行われました。このご時世らしい無宗教の家族葬で、シンセサイザー奏者の曲を流す音楽葬だったということです。難聴が酷くなるまで、父はレコードでクラッシック音楽を楽しんでいました。葬儀場ではドボルザークの「家路」、平原綾香さんの「ジュピター」などが演奏され、音楽好きの父に相応しい送り出しとなったことは、何よりの供養だったと思っています。
前記事の私のお知らせをそっと読んで下さった皆さん、温かいお言葉を残してくださった皆さん、その節はありがとうございました。父が危ないとの知らせを受けたこの数ヶ月間、色々な思い出が甦る日々が続いています。そんな様子を「思い出の引き出しを眺める」と表現された方がおられましたが、今はまさにそんな感じです。
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家族がポツリポツリと父の思い出話をする中で、特に興味深かったのは私のオットの話でした。
私と子供たちは特別なことがない限りは、2、3年に一度日本への帰国を果たして来ました。サラリーマンだったオットは日本の企業の現地法人に勤めていたこともあって、定期的に(年に2度は必ず)日本出張の機会がありました。そのうちの7月(ブラジルの冬の休みの時期)に家族も合流して帰国を果たす、というのがお決まりのパターン。と言っても、私1人で子供たちを連れ帰り、後からやって来るオットと合流してほんのいっときを家族一緒に過ごす慌ただしい里帰りでした。
オットの訪日目的はあくまで仕事ですから、滞在はせいぜい10日か2週間くらいのこと。平日は仕事に集中して、週末になってやっと家族で生活必需品やお土産品買い出しのために出かけるという感じでした。帰国の日はホテルからリムジンバスに乗って直接成田まで。スーツケースを宅配便で送る手間もなく、ギリギリまで荷造りが出来てそのままバスに乗せることが出来るのも、子供連れの旅には便利でした。
オットが来るまでは私たちは千葉の実家(もしくは弟宅)で過ごし、オットが到着しブラジルに戻るカウントダウンが始まる頃に都内のホテルに移動していました。会社から近い品川駅前にあった、定宿だったそのホテルの名前は「ホテルパシフィック東京」。会社のある田町まで一駅で交通の便もよく、私が在籍中も中南米からのお客様をご案内していたものでした。何より魅力的だったのは、会社の名前で予約をすれば宿泊料金が割引になることでした。
当たり前のことながら、訪日の回数としては家族よりもオットの方が断然上で、週末になると(私が帰国していなくとも)オットは私の両親や弟に声をかけてくれて、そのホテル内の和食屋さんでの昼食に誘ってくれていました。
オットが覚えていたのは、その時の父との会話です。もともとエンジニアでサラリーマンであった父は、冷熱事業、とりわけホテルやデパートなど大型施設の空調の設計を生業としていました。当時40代だった父は偶然にもその(後の私たちの)定宿の開業に関わっていたと言うのです。私たち家族にはしたことがない話です。
当時としては画期的なプロジェクトで、最新の技術を使いながらも、なるべく低コストで上がるように注意を払って設計したとのことでした。課長だった父は、部下だった係長を連れて連日現場に張り付き、自分達が設計したシステムが正常に機能するか固唾を飲んでそのインスタレーションを見守ったという話でした。父はその数年後独立し、茨の道を歩むことに。(歴史は繰り返すのか、オットも同じような道を選び、今まさに苦労の真っ最中です。)
父はそんな思い入れのあるホテルでオットと会食を共にすることがとても嬉しかったらしく、テーブルに付くと何度となく同じ話をしていたそうです。同席した母や弟もその話を聞いているはずですが、弟にその話を振ると見事にスルーしていたので、関心がなく覚えていないのかもしれません。
ついでながら、父はその会食の席で、自身のエンディングノート(オットの朧げな記憶ではB5版の大きさで表紙はグレー)を鞄から取り出して見せてくれたそうです。娘である私ですら見たことのなかった父の秘密の?ノート。几帳面な父の字で、ぎっしり何やら書き込まれていたことが印象的だったとか。弟はそのことも覚えていませんでした。
弟に断捨離ついでにノートを探してもらったのですが、どうしても見つからなかったそうです。父は敢えて簡単には探せない場所を選んで隠したのでしょうか。(シマリスか⁉︎)弟は遺言としては役に立たない(公証人役場や銀行の貸金庫に保管されていないから?)から価値がないと言っています。でも、そういう目的ではなく、本人の直筆で書かれた、今となっては貴重な思い出のノートを見てみたくなっただけの話です。近々業者を入れて行われる予定の、徹底断捨離の時に見つかったら良いなぁと思っています。父がホテルに持ち込んでまでオットに見せたかった大切なノートなのですから。
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このホテルにはまだまだ家族の思い出がたくさんあります。娘が一歳の時の里帰りでは、オットと離れて過ごした2ヶ月の間に、娘がオットのことをすっかり忘れてしまったのは衝撃的でした。オットの到着後、部屋で久しぶりの家族再会を果たして直ぐに二人を置いてコンビニの買い物に行って帰ってみると。。エレベーターを降りると廊下にまで娘の泣き声が響いていました。そして扉の前には様子を窺う、従業員の方。
「違います!」
と事情を説明したかったのですが、私の姿をご覧になるや否や、その方は足早に立ち去られました。(絶対に何か誤解されていました。。)
帰国を2日後に控え、やはり一歳だった息子が高熱や嘔吐で大騒ぎだったのも、ホテル宿泊中のことでした。結局、喉にくる夏風邪(ヘルパンギーナ)との診断で、出発日には元気になって事なきを得ました。
子供たちが小さかった頃は、実家から子連れで東京まで出るのも一苦労でしたから、都内での仕事帰りに友達が部屋に寄ってくれて、お弁当でゆっくり食事にしたこともありました。たまにはホテル内のレストランで優雅にお茶を楽しんだりも。
ホテルには美しい日本庭園があって、子供たちは庭を探検することが大のお気に入り。両親や私の友達が訪問すると、得意気に庭を案内したものでした。夏休み期間には、大宴会場で開催された夏祭りを楽しんだ年もありました。娘が射的でくまのプーさんのレトルトカレーをゲットして得意気だったこと、金魚掬いの金魚を「ブラジルに連れて帰る!」と駄々をこねる息子を宥めたことなども、今では良い思い出です。
父や家族の思い出がたっぷり詰まったこのホテルは、時代の流れか2010年に閉館となりました。(しばらくはビジネスホテルやテナントビルとして運営されたそう。)従って、その後の家族旅行は他のホテルを利用せざるを得ませんでした。近年の、私単独での帰国に、ホテル宿泊はもう必要はありません。自営の道を選んだオットには、もはや日本出張の機会はなくなったのですから。
そして2021年には地区の再開発に伴い、旧ホテルパシフィックはとうとう全館閉館となったそうです。ゆくゆく建物は解体され、跡地には大規模複合施設が建設される予定だとか。
次に訪日する時には、品川駅のホテル側(高輪口側)も大規模に再開発されて、懐かしい街の姿が一気に変わってしまっているのでしょうか。街の景観、建物の老朽化などいろいろ問題はあり仕方のないことなのでしょうが、なんとも寂しい気持ちになるものです。ひともものも街も...。変化をなかなか受け入れられずにいる私。それは歳のせいなのでしょうか。
【本日のおすすめミュージック】
米国ニュージャージー在住のジャズピアニスト、Toru Dodoさんの演奏によるLove Theme from Cinema Paradiso。(ニューシネマパラダイスより愛のテーマ。アルバム 116West,238St 収録。)今週はこんなインストゥルメンタルの曲ばかり聴いています。心に沁み入る美しい旋律です♪
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