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すぐ手料理なんていうひとは断然信用しない。

一緒に暮らすようになるまで、私はそのひとのために料理というものをほとんどしないことにしている。

あのまま眠りにつけなくて、ふたりでぼんやりと退屈する霧の中のつめたい夜更けなどに、男のひとが俄に「なにか食べるものはある?」と言うのは、いったい何の試験なのか(そしてどうして彼らはいつも夜中にお腹が空くのだろう?)。そんな時、私がせいぜい供するするのは、小さなキッチンのテーブルで、退屈そうに匙を突っ込むオートミールのおかゆであったり、蜂蜜(ああでもそれは気に入りのラベンダーの蜜なのに)をのせただけの固くなりかけたバゲットの切れ端であったり。でも普段の私の振る舞いを知っている彼らの多くは、やっぱりなという思いと共に特に感慨もなくそれらを平らげ、早々に寝室に引き上げる。

別に意地悪ではないのだ。私にとって料理は、家族のしるしなのだから。

料理は、心から好きだ。野菜や肉や魚。いきものの命をいただいて、それを丁寧に料理して、自分のからだに吸収すること。その過程全てが神聖で、かつそれはどこまでも日常で、生きてゆく生命の生々しい温かさ。

時々、あたまが疲弊すると(でもそれでいて、身体には力があるようなアンバランスな時)私は黙々と料理をする。それは私にとって、或いは儀式のようなものだ。私は市場へ行き、季節の野菜を吟味して選び、肉屋でぶら下がる肉塊のちょうどいいところを包んでもらい、その上に卵を1ダース、そうっとのせて、私の買い物籠は満たん。家に帰り、全部テーブルに並べる、その圧巻の色のとりどり。それからは、ただひたすらに手順だけを反芻する。包丁の刃先を凝視し、熱い湯気を吸って、弾ける音を聞いて。わさわさと茂る香草を刻んで、むせかえるような青い葉の匂い。つやつやと煮上げた豆を潰す、この手の中にある生命の手応え。やや暫くすると、それも全て鍋の中フライパンの中、しんなりとくったりと湯気を立て鼻腔をくすぐる香ばしい匂いを纏う。先刻までの生きものは、すっかりと私の食事になって、ずらりと卓の上に並んでいる。この一連の儀式が終わる頃、程よく疲れた私は、凪いだ気持ちで無口になる。

だからあの日、「じゃあ家で夕食を食べていく?」と気軽な誘いに見せかけて、私は内心に確信があったのだと思う。「いいですね、それもたまには」そのひとは、短く言ってにっこりとした。そっけないくらいに。

「玲さん、意外とちゃんとしてる」

私の冷蔵庫の扉を開けて、彼が言う、そして小さくくくと笑う。「まさか料理のできる女アピールじゃないだろうと思ってたんだけど」さっと野菜室の段を開け、短く見渡して直ぐに閉める。「野菜がちゃんとあるのは、料理をするひとのしるしだね。」そう言って、さっき一緒に選んだつめたい白ワインの壜を手に取り、ナイフを手に手際よく抜栓する。「いいよ、今日は僕が作るから。玲さんは見ていて。」洗いかごにあった水飲み用のグラスになみなみと注いで、私に手渡す。このひとって、いつもこんなふうだっけ。

「材料はどれを使ってもいいの?」「メインには牛ばら肉と花梨を煮込んだのを作ってあるけど」「じゃあそれと」「あとはなにかおつまみ作る。」

野菜室から胡瓜を取り出して、大胆にぶつぶつと切る。塩をまぶして置いておく間に、にんにくをごく細かいみじん切りにしたのと、香菜の使いかけがあったので、それを刻む。胡瓜の水分が出たら、軽く絞ってごま油で和えて香菜とにんにくを加えて、小鉢にわさっと盛り付ける。ブリーと、冷蔵庫のポケットに練うにの瓶詰めを見つけて、平たく切った白かびのチーズに薄くうにを塗って、海苔で巻く。まったりとしたチーズとうにと海苔の磯の香り、おいしいはずでしょ。あとはやっておいて、と玲さんに身振りで見せて、オッケー、と彼女がうきうきと請け負う。耐熱ガラスの小鉢に絹ごし豆腐をざくざくと掬って入れ、帆立の缶詰を、缶汁ごとじゃっと空ける。塩を二つまみくらい振り、ごま油を回しかけて千切りの生姜をのせ、ラップをかけて、電子レンジに。ここでちょっと僕もワインを飲む。

冷蔵庫や食料庫の中身をぱぱっと見極めて、どんどん慣れた手つきで調理していくその姿に、私はなかなかに驚いた。それでいて、胡瓜のぶつ切りが不揃いだったり、針生姜がマッチ棒くらいだったりするのが、妙に愛らしい。私はなぜだかとてもリラックスした気持ちで、自身の台所に座って、彼が料理をするのを眺めていた。

できたはしから、どんどんカウンターに並べると、玲さんがいちいち感嘆して褒めてくれるので、僕の気分はよかった。玲さんの煮込んだ花梨ととろとろの牛肉の煮物も出してきて、つまみながら料理を続ける。オイスターソースと花椒の香りの効いた、中華風の煮込みだった。こんな料理を、彼女がするのは知らなかった。ゆで卵と柴漬けを入れたポテトサラダを出したところで、玲さんがナパの赤ワインも開けようか、と言う。

「飲みすぎた。」赤い頬で彼女が言う。「もう少しなにか食べられるでしょ?なにかごはんぽいものとか?」僕はまた立ちあがり、玲さんが野菜室に大事そうにキッチンペーパーでくるんでしまっていた大根の葉取り出す。ざくざくと刻んで、フライパンでさっと炒める。そこに酒で少し溶いた味噌を加えて、レンジで温めたごはんも炒め合わせる。インスタントの味噌汁に湯を入れて、ちぎった海苔とバターを浮かべて、彼女の前に並べる。

「魔法みたい」彼女がうっとりと言った、歌うみたいに。

僕たちは黙々と食べる。「これ、母の味でしょ。」「さすが、ご明察。」「いやいや、だってきみの年代の女の子はこういうのは作らないでしょ。」僕は玲さんに、子どもの頃の話をする。少し長い、とりとめもなくて、別段結論もない、ただの思い出の中の憧憬。目に浮かぶその景色を、僕はただそれを言葉にして再生するみたいに。その間、彼女は何も言わなかった。僕はその伏せた睫毛をみていた。

「料理って、家族のしるしだと思うんだ。」そう僕が言ったとき、玲さんはなぜかとても驚いたような表情をした。

あなたがもし、この創作物に対して「なにか対価を支払うべき」価値を見つけてくださるなら、こんなにうれしいことはありません。