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【珈琲のある風景エッセイコンテスト入選作品】珈琲とアップルパイ

 ずっと気になっている珈琲店があった。美術館の帰り道、外は暗くなり始めていたが、少し足を延ばして立ち寄ってみることにした。
 店内は明るく穏やかだが活気がある。入口で迷っていると、スタッフに導かれそのままカウンター近くのテーブル席に座った。
 魅力的なストレート珈琲に目移りしながら、オリジナルブレンドとアップルパイを注文。カウンターの中で、一杯ずつドリップするたび香りが立つ。運ばれてきた珈琲をひと口飲んだ。ところが思ったほどピンとこない。期待しすぎたのだろうか?飲みやすいのだが、あまり印象に残るものではなかった。
 ひとまず珈琲カップを置いてアップルパイを食べた。甘酸っぱく艶やかな味が口の中に広がる。珈琲に合うお菓子作りをしている。そう思いながら、もう一度珈琲を口に含んだ。
「えっ!?」
 最初に感じた珈琲の印象がまるで違う。
 その時、ひとりのピアニストが頭に浮かんだ。その演奏は、聴きやすいが個性的とはいえない。ところがひとたびソプラノ伴奏をすると、見事に一体化して観客を魅了する。歌が引き立つように、しっかり土台を作って後ろから支え、時には力強く引っ張って行く。観客はいつの間にかその空間に引き込まれる。
 オリジナルブレンドとアップルパイは、まさにこのピアニストとソプラノ歌手だった。珈琲を飲んで「おお」とつぶやき、再びアップルパイを食べる。「ああすごい」もうこんな言葉しか出てこない。アップルパイが珈琲の懐で楽しそうに歌う。次第に珈琲の温度が下がってくると、また印象が変わる。「ここからは心を落ち着かせて静かに味わいながら飲んでくださいね」そう言われているようで、終演が近いことに寂しささえ感じた。
 ひとつひとつの積み重ねとこだわりの上にある一杯の珈琲とアップルパイ。スタッフのもてなしの中に潜む凛とした空気が心地よく、余韻に浸りながら珈琲店を後にした。

※2016年、珈琲倶楽部 船倉さんの主催エッセイコンテスト「珈琲のある風景」(2018年で終了)で、船倉賞を頂いた作品です。

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