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私が感じている寂しさとは

こんばんは。

先日初めてのnoteを投稿したんですが、自分の想像以上に多くの方に反応をいただき、驚きです。皆様ありがとうございます。

また、様々な方のnoteに触れていくなかで、自分のnoteが読みにくいことに気が付きました…

私事なんですが、本など文を読むことで新しい価値観や知識を取り入れることは好きなんですが、どうも文章が並んでいるものを読むのが苦手なんですよね…

私と同じような人が少しでも救われるように、今後は機能に慣れていきながら…読みやすいように書いてみたいと思います。

改行するだけでもだいぶ読みやすさが変わりますね。メモメモφ(..)

と、余談はさておき…


本題に入りますが、皆様は「寂しい」と感じたことはありますか?

(1) あるべきものが欠けていて、物足りない、物悲しい気持ち。
(2) 人の気配がなく、心細いほどにひっそりしている。

Weblio国語辞典

恐らく多くの方が上記のような気持ちを抱いたことがあるのではないでしょうか?私だけではないはず…ですよね?

私はこの「寂しい」という感情に物申したい、というより私の「寂しい」の感情に物申したい!!

私が感じる寂しさとは何なのか

そもそもなぜこの感情が沸いてくるのか。こんな感情に振り回されるかという話です。

私が感じている「寂しさ」というのは今の人間関係、環境によって現れている一時的なものではなく、子供のころから育てられた寂しさが消化できていない状態だと思っています。

少し話はずれますが、人間が性格や人格を構築する際には遺伝的要因、そして環境的要因が関係しています。

環境的要因とは自分の周囲、家族構成、学校生活、友人など様々なものがありますが、一番私に影響を与えているものはだと考えています。母親ですね。

父親とは、小学校に入学する前には別居しておりその後離婚しているので、児童期の時点で親といったら母親が一番に出てくるイメージです。

なぜ母親の影響が大きいと感じたのか、それは母親が周囲の人間とは空気感が大きく異なったからです。

詳しく書くと長くなるので、ここでは解説しませんが、私が幼稚園児の時点で母親は精神病を患っていました。

気持ちの波が大きく、急に怒り出したと思ったら、静かに泣き出したり。と思ったら、気分良く活動し始めたり。

波に飲まれるなか、幼いころの私が望んでいたのは怒鳴ったり手を上げたりしない、気分が良いときの母親でした。

母親の機嫌が悪くならないように行動することが当たり前になり、自分の欲求を満たすことより母親の機嫌のことを考えていました。

このような生活が高校生まで続き、環境が良くなったのは高校3年生。正直遅かったかもしれません。児童期は母親など家族と愛着を築く大事な時期です。

しかし、その大切な時期に正しい甘え方を習得することができなかったことが、今の正体不明の寂しさに繋がっている部分はあると思います。

私が感じる寂しさの根本は、発達課題を達成していないことからのものが大きいのかなと。だから時間が立っても、何をしても心が空っぽな感覚があるんだと感じています。

なぜ寂しいと感じるのか

寂しいの正体は児童期の環境。では何が引き金になって寂しいを感じているのでしょうか?

以下に、自分が寂しいと感じる瞬間を挙げてみました。

  • 友人と遊んで帰宅したとき

  • 彼氏が構ってくれないとき

  • 複数のグループの中で、自分が一人だと分かったとき

パッと思い付くのはこんなでしょうか…。

これらに共通することは、全て他者との関わりがあること、人との関わりの中で自分が一人だと認識したとき、つまり他者からの関わりに依存していることが分かりますね。

私は一人でカラオケに行ったり、映画を観たり、旅行に行くことが好きなんですが不思議なことに、そのときは寂しさを感じないんですよね。
むしろ一人で行動するのは楽ですし、楽しいと感じています。

私は人との関わりを持つときほど、強く寂しさを感じるようです。それは、正しい甘え方を理解しておらず、他者からの関わりに合わせていることにより生まれているように思えます。

自分から人に声をかけることも少ないので、寂しいは解消されません。

なんなら、声をかけたところで「うざくないかな」「嫌われないかな」「こんなこと言っていいのかな」など結局相手の顔色を伺っているので、どうしよもない気がしてます…

人と関わるほど寂しいが生まれるなんて、残酷ですね。

寂しさは人でしか埋められないのか

寂しさが生まれてしまうのは仕方ないです。人間ですから。うん、仕方ない…
問題はこの感情をどう処理するかです。

先述したように、私は一人で旅行などの娯楽を楽しめる人間です。これらを行っているときは寂しさなど感じません。

これは、娯楽によって寂しさを埋められているのか、それともそもそも寂しさが現れる条件下ではないのか。

恐らく後者じゃないかなと思います。

そもそも、寂しさとは長時間を耐える物寂しさと、時間では解決できない人恋しさがあると感じています。

私の場合、一人で行動することに抵抗がないので、自分のやりたいことはできている状態ですね。いわゆる「暇」という状態ではない、または「暇」の使い方を理解できている、つまり、物寂しさはないと思っています。

しかし、人が関わると話は別です。

人と関わるときには、自分のやりたいことを好き勝手やるのは難しいですよね。純粋に、関わる人が増えることで実現不可能になることもありますし、相手に不快感を与えてしまう可能性もあります。

でも!!!

自分という人間を認められたい、求められたいという欲求は少なからずあり、それを満たしてくれるのは人間しかいません。

私にとって、人と関わることは相手の顔色に怯えることであるのに、自分の存在を認知ひてくれるのは人間だけなんです。

人間でしか埋められないものはあるんだと、私は思います…。

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