ペドフィリアの生存戦略にみる、社会的生物としての人間の幸福論
小説「ラブセメタリー」を読んだので、読後感想を書く。
この小説はいわゆる小児性愛者、「ペドフィリア」を扱った物語だ。
まず、読んだことでペドフィリアという性的マイノリティの苦悩、葛藤への理解が深まった。彼らは先天的にマイノリティの性的嗜好を持っているというだけで、それ自体は悪いことではない。であるにもかかわらず、まるで存在が犯罪者扱いだ。マイノリティが彼らに投げかける無理解な暴言という言葉のナイフの数々に、彼らの立場に立って胸が痛くなる。
彼らは望んでペドフィリアになったわけではないし、そういう性的嗜好に生まれただけのことだ。彼らにとっては自然に好意を抱き、欲望を抱く対象が小児であったというだけで、彼ら自身には何の悪意も罪もない。ペドフィリアの欲望に応えるビジネスも存在しているし、然るべき場所で欲望を吐き出せば罪に問われることはない。
しかし世間ではペドフィリアの存在自体を否定する言説が当たり前のように飛び交い、ペドフィリアの存在を世間が許さない。(公認されていたのはジャニーさんくらいではないか?)そのためペドフィリアは決して本当の自分を公にすることはできず、またペドフィリア当事者が良心的であればあるほど、常に強烈な自己否定感を抱えながら生きることを強いられ、社会通念と自我の狭間で苦悩することになる。
「公に許されない欲望を持っている」という罪悪感を飼い慣らし、本当の自分を守って生きるには、表の社会での自分と本当の自分を切り分けて、表の社会での自分を完璧に演じ切るしかない。本当の自分が抱える欲望が色濃くなればなるほど、また自分自身を責める気持ちが強くなればなるほど、偽りの姿である「表の自分」の人格の完璧さの精度が上がっていく。「表の自分」が完璧な人格であればあるほど、万が一ボロが出たときのリスクヘッジになるからだ。しかしこれは危ういシーソーゲームでもある。本当の自分に蓋をし続けると、いつか剥き出しの自我が暴走して表の世界に居場所がなくなってしまうからだ。作中の「森下」の、晩年のように…。
幸せとは何なのか。幸せは、あくまで自分自身が決めるものだが、社会通念との折り合いも自分自身でつけなければならない。自衛しなければならないのだと、残酷な現実を突きつけられた一冊だった。
ペドフィリアのこの生存戦略は、社会的生物としての人間の幸福論に敷衍できる。
幸福論とは、きっと自分自身が本能的に望む幸せと、その時々の社会通念との間で折り合いをつけた先にある折衷案のかたちをしている。これは我々人間が社会の中で生きる社会的生物である以上、避けられない現実だ。剥き出しの自我では世間で生きられないし、世間様の望む己の姿をただ演じても押さえつけられた自我が暴走して破滅する。
世間に殺されず幸福に生きるには、理性で己を御しながらシーソーを乗りこなす手腕が試されている。
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