きれいなひとみ
「いつまで寝てるの〜!」
2020年7月25日、4連休中の昼下がり。ソファの上に、肩をゆすっても地蔵さながらびくともしない夫がいた。
すやすやと眠り続ける様子はまるで眠り姫のようで、潔くすらある。登山やキャンプを愛するアウトドア派の夫にとって、外出自粛はかなりこたえるのだ。生気を吸いとられてしまったらしい。わたしまで呼応して、死んだ魚の目になっちゃいそう。
しかし、夏の部屋はいい。風に揺れるカーテン、蚊取り線香のにおい、くるくる回る扇風機の羽、炭酸水の泡がしゅわっと消える音、ひんやりと冷えた畳……。
愛すべきものがたくさんある。
わたしは買ったばかりの詩集をひらき、畳の上に寝そべった。本も畳も、いい香りがする。
でも、なんということだろう。
しばらくすると、まぶたがどっと重たくなってきた。
わたしも寝るの? 寝ちゃうの……?
ね……ます……。
自然の摂理には逆らえない。いつのまにやら、わたしは夢のなかにいた。
*
「あれ、一緒に行きます?」
2015年の夏、飲み会の帰り道。あなたが指さす方向には、チカチカとひかる赤い文字があった。
『7月25日 隅田川花火大会開催に伴う車両通行止めのお知らせ』
高速道路下の情報板をふたりで見上げる。闇夜にぽっと浮かんだその文字は、しばしゆらめいた後、流れ星みたくあっというまに消えた。
「花火、いいですね!」
ほろ酔いの火照った身体から、やけに高い声が出る。
ふたりきりになれて、よかった〜。
いっしょに焼き鳥を食べていた数名が別の駅に向かってくれたことに感謝しながら、ふわふわしたきぶんで駅までの道のりを歩いた。
心の声が漏れないように。泉のように湧いてくるよろこびが、溢れすぎないように。
あなたの横顔をチラ見するのが楽しい。
話すときに目が合うと、すぐに笑みが漏れてくる一方で、その青いひとみに囚われて動けなくなってしまう気がしてこわくなる。ほんとうに、みずうみのように澄んだひとみをしているのだ、あなたという人は。
とんでもない目だ。とんでもなく、きれいな目だ。
都会のビル街を、ぬるい風が吹きぬける。その日はたしか三日月で、わらっているようにもみえた。空の濃紺が、透明な夜に満ちてゆく。
*
後日、メールのやりとりをした。
せっかくだから、浴衣を着たいですね。持ってますか?
ないです!買います!
僕もです。今週末に買いに行きます。
わたしもそうします。
浴衣姿、楽しみにしてますね。
わたしも。
(ほんとうに、楽しみにしています!!!)
書類や洋服にまみれたベッドの上で、にやけながら文字を打つ。蛍光灯はこちらが見たくもない床のほこりを残酷なほどにきらめかせているけれど、そんなことはどうでもよかった。
社会人一年目、右往左往しながら苦しみもがいていた頃。家に帰ったら、もうなんにもできなくて、泣いてばかりいた頃。ともすれば、身も心もちぎれてしまいそうだったわたしを支えてくれたのは、まぎれもなく、あなたとのお砂糖の交換みたいなやりとりだった。
*
はじめてのボーナスで、わたしはちょっといい浴衣を買った。落ち着きのある生成色の背景に、牡丹の花が描かれたものを。
だれかと会う瞬間のために、じぶんのお金を使って、うつくしい和服を買う。未知の体験にぞくぞくして、社会人っていいじゃん、と思った。
「いつ着られるんですかー?」からはじまる着物屋のお姉さんからの質問に調子にのって答えていくと、
「それ、ぜったい告白されるやつじゃないですか〜」
と、きらきらした目で彼女は言う。
そうなのだろうか。そうだといいな。
このときのわたしの頬はたぶん、浴衣に描かれた牡丹の花で染めあげたような淡いピンク色をしていたと思う。
*
当日は、駅で待ち合わせることになった。行き先は隅田川でなくなっていた。なんと、じぶんから隅田川花火大会に誘ってきたあなたは、人ごみが大の苦手だったのだ。
いろいろと調べた結果、
隅田川はあまりに混雑がひどいことがわかりました。
同じ日に行われるちいさな神社の夏祭りに行きませんか。
ちいさな神社の夏祭り……。よい。よいです!とってもよい。むしろそっちのほうが、かなりよい。風情がある気がする。
それとね。あなたのそういうところも、いいと思うんです。
メールを読んだわたしはぶつぶつと呟きながら、隅田川の花火に誘われたときと同じように「いいですね!」と返事をした。
こんなにも待ち遠しい日が、わたしの人生にも訪れるなんて。
隅田川には行かずとも、心のなかで、大玉の花火はとっくに上がっていた。
*
お互いに買ったばかりの浴衣を着て、夕暮れ時の神社へと歩いていく。
「似合いますね」「素敵ですね」なんて言いあったのかもしれないけれど、舞い上がっていたからよく覚えていない。
でも、鳥居をくぐろうとした瞬間のできごとは、鮮明に記憶している。
「いきましょうか」
あなたが立ち止まり、左手をすっとさしだしてきたのだ。わたしはお姫様気分で右手をのせた。
握られた。あったかい。熱いくらいだ。みるみるうちに体温が上昇し、汗まみれになる。あなたの手はあまりにもあったかくて、ほくほくのさつまいもを思い出させた。夏だというのに。
多すぎず少なすぎない人の波をかきわけて進んでいく。深緑色の帯をびしっと絞めたあなたはとても凛々しかった。屋台で唐揚げと焼きそば、それぞれの飲み物を買い、神社の隅のコンクリートに腰かける。つないだり離したりと忙しかった手がようやく落ち着いたので、すこしほっとした。
あなたが缶ビールの蓋をぷしゅっと開ける。
わたしはラムネのビー玉をぽとんと落とす。
「乾杯」
「乾杯」
夢見心地だった。
けれども、ラムネの瓶がゆびさきの熱をほどよく冷まし、つめたい夏の味がきりりとのどを潤し、胸のなかをちょうどよい温度に冷ましてくれた。
「ちょっと飲む?」
わたしの顔を覗きこむあなたのひとみは、やっぱりきれいだ。さしだされたビールを、ちょっぴりわけてもらった。
「おいしい?」
「おいしい」
おいしいに決まってるじゃないの。おいしくて、どうしたらいいのかわからなくなるくらい。心の花火がまたもやぴゅ〜っと上がっていく。
その後のことは、ほかの人にはあんまり話したくない。神社をぐるっと一周し、夜の公園に行き、ベンチに座り、あなたが何度も深呼吸をする気配をとなりで感じ、わたしまで緊張してきて……
「×××××××××」
ここからは、ふたりだけの秘密だ。
*
「いつまで寝てるの〜」
夫に起こされ、窓の外の暗さにおどろいた。
やってしまった。
わたしは畳の上にいた。
夜ご飯どうしよう? 困ったものだ。今日という日に限ってこんなこと!
そのとき、
「デパ地下でも行ってみる?」と、のんびり構えた夫が言った。
デパ地下…?
え。いい。いいです。とてもいい!!
夫の一言で、わたしの視界は一気に晴れた。そなたは神か。
夕闇のなか、さっそく自転車を走らせて、デパ地下に直行。お刺身のセットに牛タン、有名店のメンチカツ、巨峰、ケーキ……。わたしたちは爆買いし、デパ地下という夢の世界でリュックのなかをいっぱいにした。
帰宅後、いそいでご飯の準備をする。食卓テーブルにずらりと並ぶデパ地下。
すばらしい。満点です。
わたしがグラスをふたつ置くと、夫が缶ビールをこつこつと注いでくれた。
「結婚記念日に、乾杯」
「はじまりの日に、乾杯」
*
あなたは5年前よりも、お酒に弱くなった。健康志向にもなった。節約もしっかりしている。最近の社会情勢の影響もあって、飲みに行く機会はめっきり減った。趣味の登山や旅行をひかえはじめてからは、眠り姫に変身する日が続出している。
ことしは、夏祭りにだって行けない。
でも、夜。
仕事から帰ってきたあなたとソファでくつろいでいるとき。あなたとご飯を食べているとき。あなたとひとつの缶ビールをわけて飲むとき。
「満月だよ」とあなたに伝えて、ふたりでベランダに出るとき。ベランダで電子タバコを吸いながら炭酸水を飲むあなたの横顔を、窓際から眺めるとき。
休日や記念日にちょっとだけ贅沢して、互いのグラスをこんっと鳴らすとき。
これらすべての瞬間が、わたしの最近の、最大のしあわせかもしれません。
ふたりとも我が強くなって、あの頃みたいに褒めあってばかりはいられない毎日だけど。
手が触れても、いっしょにビールを飲んでも、舞い上がることはないけれど。
ずっとずっと、思っている。
あなたのひとみは、やっぱり、とんでもなくきれいだ。
お読みいただきありがとうございました! スキもシェアもサポートもめっっっちゃうれしいです。 今日も楽しい一日になりますように!