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前のめりになる授業の秘密

私が校長として勤務していた中学校には、
その授業で生徒たちを前のめりにさせる国語科の先生がいました。

前のめり」という言葉を使いましたが、
正確にいうなら、
授業において、学習の主体者である子らが、自らの学習を自覚し、自分事として取り組む姿、その姿勢の高さ」のことをいいます。
指導者に指示されることをただやっている、やらされている、やってやっている姿ではない姿です。
ですから、この先生の授業は、指導者への信頼が育っていて、子らがみんな好きです。国語が得意ではない子らも、好きなのです。
授業を参観する私も嫉妬する(!?)くらいの子らの姿をその教室で引き出します。

どこに、どんな秘密があるのでしょうか。
私なりに分析をすると、
次の5点になります。

1、何を目標に、何に取り組み、どんな力を身につけるのかといった学習構想を子らにきちんと示します。
学習構想は、学習の主体者である子らにとってこそ意識されるべきです。指導者の都合と気分とによって、まるで子らに目隠しをさせて「はい、こちら、こちら…」と引きづりまわすような授業にしてはならないのです。

2、授業のはじまりには、子ら自身の言葉によって学習を方向づけさせます。
授業のはじまりの段階で、
「前の時間の授業では、
 何をして、何を学びましたか?」
「どんな力を発揮しましたか?」
「では、今日の授業では、
 何をすればよいですか?」などと
子らに問いかけます。
時には、その進行の調整も指導者がコーディネートします。
また、前の時間の「振り返りシート」の中から、皆の前で取り上げたい認識や学びの記述を指導者が紹介してはじめることもあります。
授業開始の最初の約8分。
「じゃあ、今日も、まずプリント配りますね。」などというような授業のはじまりにしないのです。

3、「学習の主体者は、わたしなのだ」ということを常に意識させる場を演出します。
授業中の大半を指導者が子らに向かってしゃべっている授業があります。いわゆる「講義型」の授業です。これでは、学習の主体者は、辛抱づよく「聞く」だけです。授業の終わりになって、指導者から「わかったか?」「質問ないか?」などと確認を受ける子らは、とても気の毒です。
この先生は、
子らが、自分で考え、自分の言葉で発言し、それを仲間と練り合わせることを大切にされています。
指導者からの言葉自体も、
「コーチ」としての言葉であることが多く、
よく吟味され、簡潔で的確です。
子ら自身の「自分事」感が、
学習者それぞれにある授業であることが、
「前のめり」をうみだします。

4、1時間ごとの授業の「板書」をタブレットPCで画像として記録し、子らの学習記録のひとつとして活用します。
1時間の学習が1つの板書に集約(=黒板を一度も消さずに、黒板1枚に学習の後を残して完成する板書)された、それはそれはよく計画された板書です。
とりわけ優れている点は、
子らの「思考」を視覚的に整理したり深めたりする「構造」「構図」を持つ板書であるということです。
そして、教室全体の「宝」となったその授業の板書を、画像として教師用タブレットPCに記録し、生徒用タブレットPCでも確認・活用ができるようにしています。

5、職員室では、子らの力の発揮をすすんで話題にし、学んだことを国語科の授業だけにとどめず、さまざまなシーンに生きて働くようにつなげます。
 指導者の喜びは、なんといっても子らの「変容」を引き出せた時です。
「あの生徒が、
 こんな発言をできるようになった。」
「学習の振り返りシートにこんな記述があって、うれしくなった。」
職員室では、こんな話題で盛り上がりたいものです。
そして、指導者にとって、さらにうれしいのは、授業で学ばせたことが、その授業をこえた先で役に立っていく姿を実際に確かめられた時です。
そのためにも、
国語科以外の様々な授業でどんな力がついているのか
どんな力をつけようとしているのか
どんな活動に取り組んでいるのか
職員間で共有する必要があります。
(中学校での学習なら、なおさらです。)
そしてさらに、
この先生は、
国語科と「総合的な学習の時間」との連携を常に意識したカリキュラムマネジメントに取り組んでおられます。
国語科の時間だけで終わらせない
つながる学びをコーディネートしようとされているからです。


秘密にしておく必要はありません。
どうか、
みなさんの授業改善のヒントのひとつにしてください。


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