自分をみとめるとは
自分をみとめる
「自分をみとめる」これについて考えようとしたのだが意外とつかみどころがない。
例えると、湖の風や波に気を取られず、しかし湖にも気を取られずただ立っている。
そんな感じな気がするのだが、それも違う気がするのだ。
条件をつけて、これは認めよう、これは認めずにおこうとすることができない。
全てを認めて、それに執着してもいけない。
となると、目的を持たずただ感じる、それが自分を認めることになるのだろうか。
自分の良いところや悪いところは、湖の風や波のようなものだ。
「あぁ 波がたっているな」と感じ、現実なんだなと認識する(それも私なんだなと)。
私の望む「自分をみとめる」
だけど、これは私が望んでいた「自分をみとめる」とは違う気がするのだ。
そもそも自分をみとめるとはなんだろうか。
次のステップへの踏み台としての「自分をみとめる」が欲しいだけで、自分が立っている土台そのものを揺るがす「自分をみとめる」を見つけたいわけではない。
むしろ今を受け入れることで、一歩一歩自分の望む方向に進んでいける、そんな奇跡を感じたいのだ。
つまり、「今の私はこうだ」と感じ「こうなりたいと思っているんだなぁ」と考えを深め「じゃぁ 今するべきことはこれだな」と地に足をつけ行動できる。
ところが、足で踏みしめてるはずの地面すら揺らぐのだ。
勿論、掴むことのできない絶対的な存在はある。
私は、今思考をしている、そしてその思考を感じている。しかし思考を感じているものを感じることはできない。
それは私の意識の輪の外にある。
だからと言って私は、不確定さにより確実性を獲得した存在に「自分をみとめる」ことを託していいのだろうか。
自信について考えたときは、この不確定さに自らを預けることが自信の獲得につながるというような趣旨の話をした。
だが、「自分をみとめる」とはもっと輪郭を持ち(だから面倒くさい)存在な気がするのだ。
そう考えると、「自分をみとめる」ということは認めなければいけない理由があるからではないだろうかと思ってくる。
理由があるなら、目的や目標がある。
最後に
私は最初「自分をみとめる」ことはマインドフルネスに少し似ていると思っていた。
そして多分、似ている。
なんというか、方向性があるのだ。
私はこうなりたいという。
マインドフルネスも「自分をみとめる」も自分を道具のように扱う面白さがある。
「なぜ楽なことがいいのか」そんな微妙な疑問がはみ出される気がするのだ。
私のような暇な人間はその微妙さが気になって足踏みしているのかもしれない。少しそう思った。
今回しっかりした仮説を作り出すことできませんでした。
また考えてver2を出します。
ここまで読んでいただき感謝!
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