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必死に生きること

はじめに
海外と日本
若者と歳を重ねた人で生きる熱量がちがう
必死さが違うと時々耳にする

だけどそうだろうか
私の会ってきた人で生きるのに必死ではなかった人がいただろうか
私含め必死に生きていたのではいだろうか

私の必死さと最初に書いた必死さは違うのだろうか
私の考えでは同じだ

私もネパールに行った時その熱量を感じた気がする
では日本でその熱量を感じないのはなぜだろうか

熱量の違い
違いを作っている大きな要因は二つあると思う(まとめると一つになるが)
一つは、行動が仕組みに依存すること
二つ目は、熱量の方向性の違いである

行動と仕組み
日々生きるためバイトをしてるとしよう
バイトをする私は誰かの目標のための手伝いをしていることになる
(1対1なら助け合いになる、そして人数を増やしても基本的に1対1の助け合いの集まりである)
しかし社会が効率的になればなるほど手伝いを仕組みを使ってするようになる

仕組みへの信頼によって成り立つ手伝いは期待を必要とする
(自動販売機にお金を入れて何も出てこなかったら、故障していると思うだろう)
そのため仕組みを取り入れた社会は期待で成り立つようになる
想像してみるとかなり面白い

壁に向かってボールを投げるとお金をもらえると仕事がある
私はボールを投げるという一見すると社会から価値がないと判断される行動をしている
しかし私は仕事をすることで金という社会で通用する仕組みを受け取ることができる

こんな感じになる
生きることは壁にボールを投げることで成り立つのだ
(バイトや仕事)
けれど疑問も湧いてくる
なんで私はボールを投げているのだろう
なぜか期待値に届くお金が帰ってこない
この壁おかしいぞ!

そして色々な考えが出てくるのだろう
壁のシステムが悪い
ボールはラケットで打つものなんだよ
などなど

期待の向き
では仕組みを挟まな世界はどうなるのだろう
するとこれも多分期待で成り立つのだ

助け合いは期待で成り立っていると言ってもいい
(返してくれる人と、そうではない人では前者の方が孤立しにくい)
違いを挙げるとすると期待が人に対してか、仕組みに対してかだと思う

熱量の向き
つまり海外や日本、若者と歳を重ねた人の熱量の違いは
期待のベクトルが人に向いているか、仕組みに向いているかの違いなのではないだろうか

今の社会は人間関係を築かなくても生きていける
それはお金という仕組みへの信頼や人間への期待のなさ(興味のなさ)からきているのかもしれない

ここで問題なのが人間には承認欲求などの生理的な現象があることだ

好きな人には認められたい
もちろん嫌われたくないだろう
尊敬できる人の言葉には耳を傾けるだろうし
嫌いな人とは一緒にいたくないだろう

仕組みと人間関係
そして仕組みを介して関わっている人は、仕組み上での人間関係にも当然ベクトルを向ける

仕組み上での人間関係の面白いところは
全体像が見えないことだと思う
個人ではなく対象になったり
逆にとても局所的な場合もある

そして全てが混ざり合ってさらにぼんやりとする

特定の個人ではなく概念になるのだ
この時私たちは何に承認欲求や、憧れをいだき、そして嫌悪感を持つのだろう

仕組みを介して関わることで個人個人の人は概念になり
その概念からのフィードバックを制御するのは仕組みになる
仕組みが人との関わりで最も重要になるのだ
事実今の社会でお金がどれほど大きな力を持っているだろうか
ただの仕組みであり、ただの概念を目標として日々ボール投げに励むのだ

魚をとるという目標が、魚を捕まえるという動作によってではなく、魚を捕まえる仕組みへの期待によって成り立つ
すごく面白い、けれど直感的ではない
そんな世界を私たちは生きているのではないだろうか

そして仕組みに向かった熱量が小さな画面を世界として私達に認識させるのだ

一旦まとめ
ここまで熱量について書いてきた
まとめると熱量が違って見えるのは熱量の方向が人に向かっているか仕組みに向かっているかであるとなる
そして熱量の方向性は仕組みが人間関係など生活に深く浸透してきたことによって変わったのである(あくまでも私個人の想像です)

必死に生きる
ここからは必死に生きることについて書いていきたい
生きるとは何だろうか
それは正当化だ
私は思う

なぜ生きているのか
運命だから
偶然だから
意味はない
私たちは様々な答えを持ってそれを解決しよとしてきた

これは全てに当てはまると言ってもいいだろう
どうしても答えを見つけ出したい
私は天才だと、全てが完璧だと思っても
私はアホで運にも恵まれていないと思っても
結局自分の存在の正当化以外の何者でもない
自分が思うように思っているだけだ
(わかりにくい表現ですみません)

なぜなら人は自分が存在していると思っているからである
自分という存在を肯定する以外にどうすればいいのだろうか
死を肯定して死ぬ人もいるしかしそれは必死に生きた結果であり、自分が思ったように、考えた結果なのである

生まれて世界とは別に自分がいることに気づく
そしてその存在を必死に肯定する
その存在とは他でもない私自身
多分あなた自身でもあるのだろう

だから人は必死に生きているのである
生まれた時から死ぬまで
何もせず存在しているだけで
ただそれが外から見えやすいか、見えにくいかの違いがあるだけだ

私はそう思う


自分で読み返してみましたが、何を書いているのかよくわかりませんでした
まだ考える必要がありそうです

ここまで読んでいただいた方、ありがとうございました!











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